朝日新聞劇評②

前回、昭和46(1971)年の朝日新聞の歌舞伎座評をアップしましたが、この月は、この歌舞伎座のほか、国立劇場、東横劇場の歌舞伎評も書いています。いまの朝日新聞は、劇場ごとに別の方が書いているようですが、登志夫担当の5年間は、歌舞伎評はひとりで受け持っていたようです。

こちらは前回の歌舞伎座と同月の国立劇場。昭和41年11月に開場してまだまる4年目くらいの興行です。「め組の喧嘩」の通し上演をしています。

そして、東横劇場は、先の雀右衛門の八重垣姫の写真を使っています。「いざりの仇討」というタイトルが夜の部に見えますが、これは最近上演した際は、「箱根霊験躄仇討(いざりのあだうち)」という本名題を、「箱根霊験誓仇討(ちかいのあだうち)」と替えていました。歌舞伎のタイトルにも差別用語が出てきますので、現代アレンジがなされています。そういう意味では、「三人片輪」などという芝居は今後封印されるでしょうか。

劇評を書くのは気を使う仕事です。この頃はとくに、いまよりも新聞の持つパワーは大きく、出演者から興行側から、みんなが注目しています。悪く言われて抗議してくる俳優もいれば、名前が書かれていないというクレームも。よく書けばまた、へつらいやがって、と言ってくる部外者もいます。業界の注目の的、話題の中心になることも多いのです。

登志夫は、著書「作者の家」の始まりの方の「狂言作者と近代」の項でこんなことを書いています。

「朝日新聞の歌舞伎評をうけもっていたころだが、あるとき尾上辰之助の『蘭平物狂』がたいへんよかったので、そのとおりにほめて書いた。

 すると、たしか『悲劇喜劇』誌だったかとおもうが、Nという高名な近代文学研究家が、名こそあげなかったが明らかに私をさして、その評は過褒であると難じた。むろん、それはいっこうかまわない、が、あとを読んでおどろいた。

 N氏の論法はこうであった。ーこの評者は幕末明治の代表的『狂言作者』の『流れ』を汲むそうだが、往時作者というものは、役者におもねりへつらって書くのをつねとした。その子孫だから、やっぱり有力俳優に取入るべく、その倅をほめるのだ……

 ちなみに、N氏はそのころ、国立劇場のプログラムや雑誌劇評にお呼びがかかったと、あちこちの会合などで非常に得意げであった。そうして、自分だけは俳優や興行会社と無関係、清廉潔白だから自由に書けると、自慢していた。自分だけがそうだと頭からきめてかかっているのだ。私はN氏と直接面識はなかったけれども、どこぞのお城の殿様ときいてはいた。が、それにしても無邪気すぎると、苦笑したものである。

 つまり、実証を旨とするはずの近代文学研究者たるものが、よくも根も葉もないことを、古い堅い頭の先入観でいえたものだと、呆れたわけだ。が、考えてみれば、おもねられたと書かれた松緑さんにも、朝日新聞にも、やっぱり迷惑な話なのだから、抗議すべきだったのかもしれない。事実そういってくれた人もいる。

 が、時代錯誤もひどすぎるので、あまりにばかばかしく、つい忘れているうちに、当のN氏のほうがまもなく亡くなってしまった。」


このクダリは、たんに「男の嫉妬渦巻く世界の出来事」として書いているわけではなく、ここから、黙阿弥の時代の狂言作者が一般にどう見られていて、狂言作者の立場がどんなものだったかにつながっていきます。劇評担当の5年間は40代なかば、体力のある時でしたが、劇評は月のはじめに観劇して、早めに出さなくてはいけないものなので、時間的な縛りも大変だったことでしょう。




河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)