河竹黙阿弥 年譜

黙阿弥作品年譜・略伝  Ⓒ河竹登志夫

※この年譜は、登志夫が著書「黙阿弥」の巻末のために編んだもの。年齢はかぞえ年。

※年月、年齢の表記は、漢数字でしたが、横書書式で読みやすくするため、算用数字に変えています。

文化13年(1816)/1歳

2月3日、江戸日本橋通りニ丁目式部小路に、越前屋勘兵衛、まちの長男として生まれた。本姓は吉村。幼名が芳三郎。父は四代目にあたり、湯屋の株の売買を業として、祖父が遊蕩で傾けた家運を再興、堅物で知られた。その妻は、五つになる長女きよを残して先立ち、その後妻に来たのが黙阿弥の母まちで、御殿奉公もした温和な人柄であった。△この年、山東京伝歿(56歳)。

文政3年(1820)/5歳

6月、祖父由次郎歿。△瀧亭鯉丈の「花暦八笑人」初篇版行。

文政7年(1824)/9歳

1月、祖母きく歿。

文政8年(1825)/10歳

11月、妹かね歿。芝金杉通一丁目へ移転し、父は質屋をはじめた。△勝俵蔵、四世鶴屋南北となる。1月、浮世絵師初代歌川豊国歿(57歳)。

文政12年(1829)/14歳

柳橋で遊楽中を発見されて勘当を受け、「八笑人」的生活に入った。△柳亭種彦の「田舎源氏」初篇版行。11月、四世鶴屋南北歿(75歳)。

天保3年(1832)/17歳

銀座二丁目の貸本屋後藤好文堂の手代となり、乱読と芝居楽屋出入りの機縁を得た。△為永春水の「梅暦」成る。3月、七世市川團十郎海老蔵となり、倅海老蔵が八世團十郎を襲名。9月、頼山陽歿(53歳)。

天保5年(1834)/19歳

7月3日、父市三郎(四世勘兵衛)が53歳で歿。貸本屋はやめたが、家業の質商を継ぐことを好まず、弟金之助にゆずり、再び遊興生活に戻った。9月茶番集、「朝茶の袋」をまとめた。この頃、「芳々」と号して狂歌・戯文・雑俳・茶番・三題噺などに趣向頓才を示した。歌舞伎役者沢村四郎五郎の娘お紋に踊りを習おうとしたが、才分なしとて断られ、10月12日、このお紋の紹介で鶴屋孫太郎(後の五世南北)に入門、作者道に入った。

天保6年(1835)/20歳

3月、市村座へ出勤、勝諺蔵と名のり番附へも載った。6月、尾上松助一座について甲府亀屋座へ巡業、番附下絵と道具帳を引受けた。絵はかねて五世鳥居清満の画風を慕って独習していたのであった。9月、興行前に全部の書抜きを担当したが、興行中傷寒にかかり劇場を退いた。

天保7年(1836)/21歳

大病後を気づかう姉の注意により、芝居を休む。9月、その姉きよが30歳で歿。△「江戸名所図会」成る。

天保8年(1837)/22歳

2月7日、芝宇田川町に移住。△11月、師の孫太郎は五世南北を襲名、河原崎座立作者となった。大塩平八郎の乱おこる。

天保9年(1838)/23歳

河原崎座へ出勤、再び芝居道に入り、3月、「琴責め」ではじめて稽古、すなわち演出・舞台監督にたずさわった。5月、はじめて「序開き」を書いた。11月の顔見世に、「無本にて稽古をなし頭取に褒められ給金上る。」△5月、五世松本幸四郎歿(75歳)。10月、後の九世團十郎が七世の五男として生まれた。

天保10年(1839)/24歳

1月、二立目(開幕劇)を書いた。6月からしつ(湿疹の一種)のため休座。

天保11年(1840)/25歳

1月、河原崎座へ復帰、3月、「勧進帳」の初演にあたり、台詞を暗誦して無本で初日を出し、海老蔵(七世團十郎)に褒められ、次第に認められはじめた。9月23日、弟金之助が23歳で死んだので、家督相続のため止むなく師に作者名を返して退座、六世越前屋勘兵衛となった。

天保12年(1841)/26歳

河原崎座立作者中村重助の要請により、家業一切を整理、三度び作者として劇界に入ることを決心し、4月、勝諺蔵から柴(後に斯波)晋輔と改名、二枚目に昇進した。このころから遊蕩は影をひそめ、無口で「勤身堅固」な人格者となっていく。△5月、四世中村重助歿(35歳)。瀧沢馬琴の「八犬伝」成る。

天保13年(1842)/27歳(序幕)を書いた。△6月、天保改革令により海老蔵(七世團十郎)が江戸十里四方追放となり、三座も移転を命じられた。7月、柳亭種彦歿(60歳)。

天保14年(1842)/28歳

11月、斯波晋輔から二世河竹新七を襲名、河原崎座の立作者となった。しかし、実権はまだスケの三世桜田治助(狂言堂左交)にあった。△5月、河原崎座猿若町三丁目へ移転開場。12月、為永春水歿(54歳)。

弘化元年(1844)/29歳

この頃からたえず、一幕二幕の脚色補作をするようになった。

弘化3年(1846)/31歳

11月、茶道具商で茶人としても知られた大和屋源兵衛の三女(戸籍の新調査による)琴(21歳)と結婚した。これより前、浅草の正智院地内の寝釈迦堂の傍(後の馬道町二丁目十二番地)へ移住していた。

弘化4年(1847)/32歳

11月、立作者として一本立となり、職責一切を司ることになった。△11月、四世市川小團次が東下し市村座に出勤。

嘉永元年(1847)/33歳

1月、長男市太郎が生れた。△11月、中村座で藤本吉兵衛が三世瀬川如皐を襲名。同月、瀧沢馬琴歿(82歳)。

嘉永2年(1849)/34歳

4月17日、母まちが64歳で歿。△4月、三世尾上菊五郎(梅寿)歿(66歳)。同月、葛飾北斎歿(90歳)。

嘉永3年(1850)/35歳

3月、追放から赦免されて戻った海老蔵(七世團十郎)のために、お目見得だんまり「難有御江戸景清(ありがたやおえどかげきよ)」(岩戸の景清)を書いた。8月20日、長女糸が生れた。

嘉永4年(1851年)/36歳

11月、「升鯉瀧白旗(のぼりごいたきのしらはた)」(えんま小兵衛)を書き好評であった。△8月、三世如皐の「佐倉義民伝」中村座で好評。

嘉永5年(1852)/37歳

7月、「児雷也豪傑譚話」。△1月、師五世鶴屋南北歿(57歳)。

嘉永6年(1853)/38歳

2月、お家物「しらぬい譚」。9月、世話物「怪談木幡小平次」。ともに好評ではあったが、この頃はむしろ三世如皐に圧され、悩んで両国橋から投身しようとしたこともあるという。△3月、三世如皐の「切られ与三」中村座で好評。

嘉永7年(1854)/39歳

3月、四世小團次のため「都鳥廓(ながれの)白浪」(忍ぶの惣太)を三度まで補筆改訂して成功、意気投合し、小團次との提携が確立した。8月、小團次の第二作「吾嬬下五十三駅(あづまくだりごじゅうさんつぎ)」を書いた。△8月、八世團十郎大阪で自殺(32歳)。

安政2年(1855)/40歳

5月、「児雷也後編譚話(じらいやごにちものがたり)」を河原崎座で上演したが、前編より不評。10月2日の大地震のため河原崎座は消失、廃座となったため、もとめに応じて市村座へ移った。△7月、三世並木五瓶歿(67歳)。10月、大地震のため藤田東湖圧死(50歳)。

安政3年(1856)/41歳

3月、「夢結蝶鳥追(ゆめむすぶちょうのゆめおい)」(雪駄直し長五郎)。これ以後門弟に竹柴姓を与えることになる。4月、次女島が生れた。5月、「梅雨濡仲町(さつきあめぬれたなかちょう)」(巳の吉殺し)。7月から四世小團次と同座、幕末の市村座全盛時代に入った。9月、「蔦紅葉宇都谷峠」が好評。以来、小團次にあてた生世話物、ことに白浪物に活躍、泥棒伯円といわれた二世松林伯円の講釈からの脚色も多く、白浪作者とよばれるようになる。

安政4年(1857)/42歳

1月、「鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)」(鼠小僧)。5月、「敵討噂古市」(正直清兵衛)。いずれも好評。この月、後の三世河竹新七が竹柴金作の名で入門した。7月、「網模様灯籠菊桐(あみもほうとうろのきくきり)」(小猿七之助)が大好評。しかし、10月の「糸時雨越路一諷(いとのしぐれこしじのひとふし)」は不評に終わった。

安政5年(1858)/43歳

3月、「江戸桜清水清玄」(黒手組助六)。このときから小團次は、正式に市村座の座頭となった。5月、お家物「仮名手本硯高島」(赤垣源蔵徳利の別れ)。10月、「小春宴三組杯觴(みつぐみさかづき)」(鉢の木)。△7月からコロリ(コレラ)がはやり、柳下亭種員(52歳)、安藤広重(62歳)歿。

安政6年(1859)/44歳

2月「小袖曽我薊色縫」(十六夜清心)がとくに好評。7月、「小幡怪異雨古沼」(小幡小平次)。このときから四世清元延寿太夫との提携がはじまった。9月、常磐津・清元・竹本の浄瑠璃所作事「日月星昼夜織分」(夜這星)を書いた。三女ますが生れた。△3月、七世團十郎歿(69歳)。5月、坪内逍遥が生れた。

安政7年(1860)/45歳

1月、後に自らの会心の作の一とした「三人吉三廓初買」を初演した。後、「三人吉三巴白浪」と改題。3月、「加賀見山再岩藤」(骨寄せ岩藤)。7月、「八幡祭小望月賑」(縮屋新助)が大当たりであった。△3月、井伊大老暗殺。8月、三座類焼。

文久元年(1861)/46歳

2月から小團次が守田座に兼勤となったので、これに伴い、以後しばしば守田座にも書くことになる。即ちこの月、「魁(さきがけて)若木対面」(市村座)、「相生源氏高砂松」(守田座)を上演。5月、市村座に「轡音纏染分(くつわのおとたづなのそめわけ)」(いろは新助)、守田座に「龍三升(りゅうとみます)高根雲霧」(因果小僧)を書いた。△12月、石塚豊芥子歿(62歳)。

文久2年(1862)/47歳

3月、市村座に「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」(べんてんこぞう)を書き大好評、市村羽左衛門(後の五世菊五郎)の出世芸となる。後に「弁天娘女男白浪」とも題した。8月、守田座に小團次のため「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)」(村井長庵)を書き大成功、後々も自ら会心の作と認めていた。

文久3年(1863)/48歳

2月、三題噺復活の機に乗じて自作の三題噺を脚色し、市村座に「三題噺高座新作」(和国橋の藤次)を書いて好評を得、三題噺の愛好家グループ酔狂連及び興笑連から引幕を贈られた。8月、市村座に「茲江戸小腕立引」(腕の喜三郎)で成功。△2月、後の五世菊五郎が羽左衛門から市村家橘と改名。

元治元年(1864)/49歳

2月、市村座で種彦の合巻「浅間嶽面影草紙」に拠った「曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」(御所の五郎蔵)を上演。7月、守田座に三世沢村田之助のため「処女翫(むすめごのみ)浮名横櫛」(切られお富)を書いた。10月、守田座に再び田之助にあてて「身光於竹功(みのひかりおたけのいさおし)」(孝女お竹)。△12月、三世歌川豊国歿(79歳)。

慶応元年(1865)/50歳

1月、市村座に「粋菩提悟道野晒」(野晒悟助)のほか、中村座にも「鶴亀寿曽我島台(ちよばんぜいそがのしまだい)」を書き、これ以後三座に随時兼勤となった。3月、守田座に「月欠皿(つきのかけざら)恋路宵闇」(紅皿欠皿)。5月、市村座に滑稽浄瑠璃所作事「忠臣蔵形容画合(すがたのえあわせ)」(忠臣蔵七段返し)、中村座に「忠臣蔵後日(ごにちの)建前」(女定九郎)を書く。8月、守田座に「怪談月笠森」(笠森お仙)を書き、田之助が好評。中村座にも「上総綿小紋単地(かずさもめんこもんのひとえじ)」(上総市兵衛)を書いた。9月、市村座で所作事「滑稽俄(おどけにわか)安宅新関」、好評。12月12日、雷門焼失の火事のため住居が全焼した。

慶応2年(1866)/51歳

2月、守田座に「富士三升扇曽我(ふじとみますえひろそが)」(敷皮の曽我)及び「船打込橋間白浪」(鋳かけ松)を小團次のために書き、ことに後者は大当たりで、百日近く(小團次の死の直前ごろまで)打ち続けた。この興行中三座の名主、太夫元、名題役者、立作者等が幕府方から「世話狂言人情」を「万事濃くなく色気なども薄く」せよとの命令を受けた。これも禍わいして、小團次は鋳かけ松を最後に、5月8日55歳で歿。

慶応3年(1867)/52歳

1月、田之助・家橘らのため、中村座に「契情曽我廓亀鑑(けいせいそがくるわかがみ)」(おしづ礼三)を書いて好評。2月、市村座に「吹雪花小町於静」(お静礼三)及び所作事「質庫魂入替(しちやのくらこころのいれかえ)」。8月、市村座に市川九蔵(後の七世團蔵)のため義士銘々伝に拠った「稽古筆七(ななつ)いろは」(鳩の平右衛門)を書いた。

明治元年(1868)/53歳

3月、田之助のため守田座に「染分千鳥江戸褄(そめわけんちどりのえどづま)」(けいせい重の井)。8月、市村座における家橘改め五世菊五郎襲名興行のとき、故小團次の役が容れられず、故人への義を立ててともに退座した。△江戸が東京となった。

明治2年(1869)/54歳

3月、脱疽のため足を失った田之助にはめて書いた「廓文庫敷島物語」(敷島物語)を守田座に上演して、好評を得た。7月、中村座に「吉様参由縁音信(きちさままいるゆかりのおとずれ)」を書き、菊五郎好評。2月、市村座へ復帰後、八月、「桃山譚」(地震加藤)で河原崎権之助(後の九世團十郎)好評、得意芸となり、後に新歌舞伎十八番のひとつとなった。さらに10月、市村座で権之助のため同系統の史劇「花楓(はなもみじ)高祖後伝記」(日蓮記)を書いた。これらが活歴風のはじめである。

明治3年(1870)/55歳

2月、はじめて團十郎のために開花風物を取り入れた際物の常磐津所作事「魁写真鑑俳優絵(さきがけてしゃしんのやくしゃえ)」(写真の九一)を書き、市村座で上演。3月、守田座の由比正雪を扱った「樟紀流(くすのきりゅう)花見幕張」(慶安太平記)で、左團次の丸橋忠弥が大成功で出世芸となった。このころ團菊左の芸風も定まり、新作は彼等を中心として書かれるようになる。同月、中村座に「梅暦辰巳園」。5月、自作の三題噺を脚色して守田座に「時鳥水響音(ほととぎすみずにひびくね)」(魚屋(ととや)の茶碗)を書いた。△9月、親交のあった山城河岸の津藤(つとう/津の国屋藤次郎、本名細木(さいき)香以、今紀文といわれ黒手組助六などのモデルとなった豪商)が49歳で歿。横浜毎日新聞創刊。

明治4年(1871)/56歳

1月、市村座と守田座に、かけもちの権之助(九世團十郎)のために、写実風の時代物「碁風土記魁舛形(せんてのじょうせき)」(後風土記)を書く。5月、三女ますが13歳で歿。8月、守田座で「出来穐月花雪聚(いでそよづきはなのゆきむら)」(真田幸村)上演。権之助の史実尊重の演出にあわせた時代物で、活歴劇の方向がようやく顕著となり、この策は後に新歌舞伎十八番の一となった。△断髪廃刀許可礼、郵便局開設。

明治5年(1872)/57歳

1月、村山座に田之助名残りの狂言として、ロンドンを舞台とする異国情緒の中に芸妓古今と夫の彦惣の別れを描いた「国性爺姿写真絵(こくせんやすがたのうつしえ)」を書いた。7月、村山座に「浪花潟入江大塩」(大塩平八郎)。10月、守田座に「月宴升毬栗(つきのえんますのいがぐり)」(ざん切りお富)。△守田座が5月に猿若町を去り、10月新富町で開場した。京都で西洋種の新作上演。鉄道開通。

明治6年(1873)/58歳

3月、村山座に権之助のため「太鼓音智勇三略」(酒井の太鼓)を書く。後に新歌舞伎十八番の一。6月、中村座に菊五郎のため「梅雨小袖昔八丈」(髪結新三)、大好評で明治維新の生世話物の傑作とされた。11月、村山座に「忠臣いろは実記」(山科閑居と清水一角)。同月、守田座にはじめて散切狂言「東京日(にちにち)新聞」(鳥越甚内)を書いたが、好評ではなかった。△4月から、後の其水(きすい)が竹柴進三の名で門弟として番附に載った。

明治7年(1874)/59歳

3月、村山座の「夜討曽我裾野曙」(曽我実録)が好評。これは後に12年、新富座再演のとき「夜討曽我狩場曙」と改題された。7月、河原崎座にて権之助の九世團十郎襲名にあたって活歴「新舞台厳楠」(樟正成)を書いた。同月、守田座に散切りもの「繰返開花婦見月(くりかえすかいかのふみづき)」(三人片輪)。10月、河原崎座に「雲上野三衣策前」(河内山)。守田座に御家物「宇都宮紅葉釣衾(にしきのつりよぎ)」(宇都宮釣天井)を書いて、いずれも大成功。

明治8年(1875)/60歳

1月、守田座改め新富座で「扇音々(おおぎびょうし)大岡政談」(大岡天一坊)。5月、河原崎座で「吉備大臣志那譚」を上演。大久保利通が支那へ談判に行ったのを当て込んだ際物で好評だった。同月同座で常磐津による散切所作事「意中闇照瓦斯灯(こころのやみてらすがすとう)」。6月、彰義隊を扱った「明治年間東日記」を新富座に書いた。10月、同座に「筑紫巷談浪白縫」(黒田騒動)。

明治9年(1876)/61歳

5月、中村座に活歴劇「牡丹(なとりぐさ)平家譚」(重盛諫言)、團十郎の重盛好評で、新歌舞伎十八番の一になった。6月、新富座に「早苗鳥(ほととぎす)伊達聞書」(実録先代萩)。9月、同座に「音響千成瓢」(太閤記)「出世娘瓢簪(ひさごのさしもの)」(女太閤記)。△11月、新富座が類焼した。

明治10年(1877)/62歳

2月、大蔵省へ出仕中のオーストリアの男爵シーボルトに本読みを聞かせた。4月、新富座に散切物「富士額男女繁山(つくばのしげやま)」(女書生繁)を書き好評。6月、同座に同じく散切物「勧善懲悪孝子誉」。12月、同座に活歴劇「黄門記童幼講釈(おさなごうしゃく)」(黄門記)。△西南戦争。8月、狂言堂左交(三世桜田治助)歿(76歳)。

明治11年(1878)/63歳

2月、新富座に西南戦争を題材とした「西南雲晴朝東風(おきげのくもはらうあさごち)」を書き、八十日余の大成功をみた。ことに九世團十郎の西郷隆盛は好評で、團洲(南洲にちなんで)の異名を得た。三月四月にわたり「魯文珍宝」に最初の伝記「河竹新七伝」が載る。6月、新富座の洋風新築開場式に一世一代の燕尾服姿で参列、開場記念として活歴劇「松栄千代田神徳」(三河後風土記)を書いた。日の出に瓦斯灯を用いたりして評判だったが、このころから欧化主義に伴って演劇改良運動がさかんになり、政界学界人が介入しはじめて、立作者としてしばしば苦境に立った。10月、新富座に「日月星享和政談」(延明院日当)及び「二張弓千種重藤(ちぐさのしげとう)」を書く。△6月、新富座がはじめてガス灯こうこうたる洋風劇場として、軍楽隊演奏のもとに、座主十二世守田勘弥以下全員洋服で立礼の開場式を行い、内外貴顕を一堂に集めた。7月、三世田之助が脱疽で両手足を失い、発狂して没した(34歳)。9月、同座ではじめて夜間興行「舞台明治世夜劇(ぶたいあかるきじせいのよしばい)」を上演。

明治12年(1879)/64歳

2月、新富座に活歴劇「赤松満祐梅白旗」とともに、リットンの戯曲の翻案「人間万事金世中」を書いた。この月「歌舞伎新報」創刊、翌月から「助六年表」を連載した。5月、新富座に「綴合於伝仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)」(高橋お伝)。7月、横浜へ外人劇を見に行く。同月、アメリカ前大統領グラント将軍の観劇にちなんで、新富座にその立志伝を脚色した「後三年奥州軍記」(八幡太郎)を書いた。9月、同座にパリの劇中劇を織り込んだ「漂流記譚西洋劇(せいようかぶき)」を書いたが、非常な不入りで、欧化に心酔していた座元の守田勘弥は、以後保守化に傾いた。このころ「ハムレット」翻案の筋書を作ったが、実現しなかった。10月、同座に「鏡山錦杷葉(もみじは)」。11月から「歌舞伎新報」に散切物「霜夜鐘十字辻筮」を連載。戯曲が上演に先立って雑誌に発表されたのは、これが最初であった。△7月、グラント将軍が新富座に招待されて観劇、お礼に引幕を贈った。英文プログラムもこのときが最初。

明治13年(1880)/65歳

3月、新富座に「日本晴伊賀報讐(あだうち)」(実録伊賀越)。6月、同座で活歴劇「星月夜見聞實記」(荏柄の平太)とともに、「霜夜鐘」を上演、同じ月にこの作が歌舞伎新報社から合本として出版された。11月、同座に「木間星(このまのほし)箱根鹿笛」(おさよの怪談)を書く。熱病のため心(神)経になり亡霊を幻覚するというのが新しく「心経病の二番目」として好評を得た。△12月、向島百花園に初代新七の碑「忍塚」建立。

明治14年(1881)/66歳

3月、新富座に「天衣紛(くもにまごう)上野初花」(増補河内山と直侍)を書き成功、ことに松江邸玄関、入谷のそばやと大口寮が好評、清元「忍逢春雪解」も大当りであった。5月、左團次のために猿若座へ「大杯觴酒戦強者(おおさかずきしゅせんのつわもの)」を書く。左團次の馬場三郎兵衛は好評で得意芸となった。6月、松羽目所作事「土蜘」を菊五郎のため猿若座に書き、成功して新古演劇十種の一となった。6月、同座に「古代形新染浴衣」(おその六三)。10月、春木座に「極付幡随長兵衛」(湯殿の長兵衛)。11月、新富座に散切白浪物「嶋鵆月白浪」を単独執筆、これを一世一代として引退を声明、番附面から退くとともに、二世河竹新七改め古河黙阿弥となり、随時、単に黙阿弥または河竹黙阿弥・古河黙阿・古河其水などとも号した。しかし実際はスケ(補助)として、この後も相変らず筆をとらざるを得なかった。同月、同座に滑稽浄瑠璃所作事「浪底親睦会」。△6月、三世瀬川如皐歿(75歳)。

明治15年(1882)/67歳

3月、春木座に能狂言に取材した「釣狐」を書く。新歌舞伎十八番の一。同月から「歌舞伎新報」に「恋闇鵜飼燎(かがりび)」連載はじまる。10月、市村座に朝鮮事件を当てこんだ「張扇子(はりおうぎ)朝鮮軍記」を上演したが、好評ではなかった。

明治16年(1883)/68歳

4月、新富座に「金看板侠客(たてしの)本店」とともに、松羽目物の「茨木」を書き好評、菊五郎の当り芸となって新古演劇十種に加えられた。5月、市村座に「新皿屋鋪月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」(魚屋宗五郎)を書く。傑作のひとつで菊五郎も大好評だった。12月、初世花柳寿輔の会のため「釣女」を書く。能狂言を取入れたもので、後、芝居にも移植された。△井上勤によるラムの物語「ベニスの商人」の訳「人肉質入裁判」刊行。

明治17年(1884)/69歳

4月、新富座に徴兵制度を扱った際物「満二十年息子鑑」を書いたが、不評。このとき、門弟竹柴金作改め三世河竹新七となった。4月、市村座の「浮世清玄廓(さとの)夜桜」(世話の清玄)が好評だった。11月、猿若座で活歴劇「北條九代名家功(めいかのいさおし)」(高塒と義貞)、高塒天狗舞がとくに好評で新歌舞伎十八番の一となった。△九世團十郎はいよいよ活歴主義に傾き、求古会を組織。鹿鳴館時代に入り、演劇改良の叫びますます高く、狂言作者への攻撃はさかんとなった。坪内逍遙の「ジュリアス・シーザー」の訳「自由太刀余波鋭鋒(なごりのきれあじ)」刊。

明治18年(1885)/70歳

2月、千歳座に活歴劇「千歳曽我源治礎」(碁盤忠信)と、零落氏族を主人公とする「水天宮利生深川(めぐみのふかがわ)」(筆売幸兵衛)を書く。前者の大詰「山伏摂待」は、新歌舞伎十八番の一となり、後者では幸兵衛発狂の場が好評だった。11月、新富座に能取りの松羽目物「船弁慶」を上演。同月、千歳座に「四千両小判梅葉」を書く。田村成義から得た材料にもとづく伝馬町牢内の場がとくに評判だった。△坪内逍遙の「小説神髄」「当世書生気質」刊行。初代内閣が生れた。

明治19年(1886)/71歳

1月、新富座に「西洋咄日本写絵(にほんのうつしえ)」(英国孝子伝)及び常磐津の「初霞空住吉(そらもすみよし)」(かっぽれ)を書く。3月、千歳座に菊五郎のため「盲長屋梅加賀鳶」(加賀鳶)、大成功。5月、新富座に「夢物語盧生容画(ろせいのすがたえ)」(崋山と長英)。この月、歌舞伎新報社から引幕を贈られた。10月、かねて欧化心酔から保守化していた勘弥が弟子入りしたので、古河新水の名を与えた。11月、菊五郎のため新富座に、当時来日して人気高いイタリー人チャリネの曲馬を取入れた清元所作事「鳴響茶利音曲馬(なりひびくちゃりねのきょくば)」(茶リネの曲馬)を書く。この月、読売新聞に朧月庵主人(逍遙)が、「河竹黙阿弥翁い告ぐ」と題した激励文を四回にわたって掲げた。12月、同座に團十郎のため活歴劇「莩源氏陸奥日記(みばえげんじみちのくにっき)」(伊勢三郎)、新歌舞伎十八番の一となる。この月浅草の自宅を三世新七にゆずり、本所番場町へ仮転居した。△8月、演劇改良会創立、黙阿弥は除外された。

明治20年(1887)/72歳

3月、本所番場町から同南二葉町に移り定住した。6月、新富座に「関原神葵葉」(関が原)。10月、新富座に能取りの所作事「紅葉狩」を上演、新歌舞伎十八番の一で、好評を得た。十一月、中村座で「因幡(いなば)小僧雨夜噺」。△4月、井上外相邸で天覧劇が行われた。12月28日、脚本楽譜条例交付。

明治21年(1888)/73歳

4月、中村座に菊五郎のため「月梅(つきとうめ)薫朧夜」(花井お梅)を書く。5月から、歌舞伎新報社で「河竹正本狂言尽」を発行しはじめた。戯曲集の嚆矢であった。

明治22年(1889)/74歳

3月、新富座に憲法発布を祝った所作事「朝日影三組杯觴」を書く。10月、同座に「柳生荒木誉奉書」(奉書試合)。11月25日、次女島が34歳で歿。△憲法発布。1月、俳優組合が作られ等級が定められた。11月21日、歌舞伎座開場。

明治23年/1890)/75歳

4月、市村座に竹本浄瑠璃「一ツ家(ひとつや)」を書いたが、これが補助(スケ)黙阿弥として番附に名を掲げた最後であった。10月、歌舞伎座に常磐津所作事「戻橋」を書いて好評、新古演劇十種の一となった。△十二世勘弥負債のため新富座を退く。

明治24年(1891)/76歳

1月、歌舞伎座に菊五郎のため際物の所作事「風船乗評判高閣(うわさのたかどの)」(スペンサーの風船乗り)を書いた。4月、「千社札天狗宮」を「歌舞伎新報」に掲げたが、一幕半ほどで中絶。5月、新富座に所作事「愛宕館(あたごかん)芝浦八景」。9月、長女糸と門弟其水を連れて箱根江の島方面に一週間旅行した。生涯で唯一の遊山行楽であった。△6月、川上音二郎が浅草鳥越の中村座で旗揚げ、歌舞伎座に福地桜痴の活歴劇「春日局」が上演された。

明治25年(1892)/77歳

1月、歌舞伎座に「箱根山曽我初夢」と清元所作事「楷子乗出初晴業(でぞめのはれわざ)」を書く。2月3日、喜寿の祝いとして真の引退をした。4月以降、毎日一編ずつの予定で、春陽堂から「狂言百種」を発行しはじめた。第一編は「村井長庵」だったが、八編十二種までで中絶した。11月、一ツ橋の官報局で、局長高橋健三、坪内逍遙、饗庭篁村など十数人に本読み(上総市兵衛)を聴かせた。この年の春、翌年の死を予感して、家事一切の整理をはじめていた。

明治26年(1893)/78歳

1月3日の朝、脳出血をおこして病臥。この月、歌舞伎座で菊五郎が踊った「奴凧廓春風(やっこだこさとのはるかぜ)」が前年喜寿引退後唯一の書下し上演作となった。1月22日午後4時少し過ぎ、念仏を唱えながら眠りに入り、大往生を遂げた。前年6月から「歌舞伎新報」に連載中の「傀儡師箱根山猫」が未完のまま残された。24日に密葬が行われたが、遺書により仮葬にとどめ、浅草北清島町(後、明治41年東中野いまの中野区上高田に移転)の菩提寺源通寺に埋骨された。法名・釈黙阿居士(しゃくのもくあこじ)。


(附)

妻の琴女は明治36年4月17日、79歳で歿した。法名・釈琴阿貞松大姉(しゃくのきんあていしょうだいし)。長男市太郎は作者道を好まず商人となって、七代目越前屋勘兵衛を継ぎ、黙阿弥の家業は長女糸に伝えられた。糸女は生涯独身だったため、明治44年11月に坪内逍遙の推挙により、市村繁俊(河竹繁俊=編者の父)を養嗣子に迎えた。大正12年9月、関東大震災に一家罹災後、渋谷宇田川町に仮住、大正13年11月24日、75歳で歿した。法名・釈糸阿智妙大姉(しゃくのしあちみょうだいし)。河竹繁俊は早稲田大学教授・同演劇博物館館長をつとめ、昭和42年11月15日79歳で歿。法名・演英院釈智俊居士(えんおういんしゃくのちしゅんこじ)。

※河竹登志夫・編