河竹登志夫年譜

【年譜】

※この年譜は、2011年4月まで河竹登志夫本人が作成しました(~2000年までは、喜寿記念冊子「河竹登志夫略年譜・業績総目録」)その後は、本人の記録を基に、家族が作成しています。

※年譜のあとに、【演劇関係活動目録】、【海外活動略歴】があります。


1924年(大正13年)/0〜1歳

12月7日、吉村繁俊(旧姓市村、信州飯田生)とみつ(旧姓田中、東京日本橋生)の次男として、東京牛込筑土八幡の吉岡弥生病院で出生。繁俊の俊と坪内雄蔵の雄とを合わせ俊雄と命名。曾祖父黙阿弥歿後31年、祖母糸の二七日にあたる。河竹家の旧本姓吉村は1949年正式改姓まで続く。住居は東京府下中渋谷字大向(通称宇田川)850番地(現在宇田川町38番地)。姉寿美子6歳、兄信雄は前年関東大震災のため水死していた。

1926年(大正15・昭和元年)/1〜2歳

2月23日、東京市外渋谷町松濤56番地(現在渋谷区松濤)へ新築移転。

1928年(昭和3年)/3~4歳

6月、早大大隈講堂で沢田正二郎の「白野弁十郎」「大隈重信」をみる。大隈が爆弾を受けた一瞬のみ記憶。観劇初体験。

1929年(昭和4年)/4~5歳

10月、坪内逍遙来訪、父の命で似顔絵をかく。大隈講堂で十三世守田勘彌と水谷八重子の「ファウスト」をみる。牢獄の場と加藤精一のメフィストのみ記憶。

1934年(昭和6年)/6~7歳

4月、渋谷区立大向尋常小学校男子一組に入学。病気のため初登校は6月。幼少時きわめて虚弱、小学1年の欠席81日。〈この年満州事変おこる〉

1932年(昭和7年)/7~8歳

10月、大隈講堂で地球座の「ベニスの商人」をみる。シェークスピア初観劇。逍遙訳、加藤長治演出、古川

1933年(昭和8年)/8~9歳

10月、築地小劇場で逍遙訳久米正雄演出の「ハムレット」をみる。「ハムレット」初観劇。

1934年(昭和9年)/9~10歳

6月、東京宝塚劇場で大劇場観劇初体験。二世猿之助(猿翁)の「若き日の成吉思汗」「武者修行とお化け」をみる。8月、二世猿之助の「弥次喜多」その他、歌舞伎座初観劇。

1937年(昭和12年)/12~13歳

3月、大向小学校卒業。4月、成城高等学校尋常科(中学部)入学。小野嘉寿男先生担任の竹組。高校卒業までクラス委員。弓道部に入る。〈この年支邦事変(日中戦争)おこる〉

1939年(昭和14年)/14~15歳

6月、世田谷区成城町485番地(現在成城4-20-15、後年処分直後弥生式遺跡出土、保存のため史蹟指定上神明緑地公園となる予定)に新築移転。

1941年(昭和16年)/16~17歳

3月、尋常科(中学部)修了。このころようやく人並みの健康を得る。4月、家学と対極の純理の世界にひかれ高等科理科乙類に進む。〈この年大東亜戦争(太平洋戦争)おこる〉

1943年(昭和18年)/18~19歳

4月、姉医師利光一郎と結婚。9月、学徒動員のため半年繰上げ成城高校卒業。10月、東京帝国大学理学部物理学科入学。やがて小平邦彦教授のもとで「場の理論」に触れる。

1945年(昭和20年)/20~21歳

4月、東大数学物理学教室の疎開にともない、小平先生の戦時研究助手として長野県諏訪郡長地村に移動。8月15日、同地長地小学校校庭で終戦を知る。

1946年(昭和21年)/21~22歳

9月、東大卒業。それより早く月初から母校成城に請われ非常勤講師として高校・中学部で物理を担当。一時東大大学院、理工学研究所にも在籍。しかし戦後の荒廃混沌の中で関心は人間俗界映画演劇に戻る。社交ダンスに熱中。

1948年(昭和23年)/23~24歳

4月、早稲田大学文学部(旧制)芸術科演劇専攻に聴講生として入学。

1949年(昭和24年)/24~25歳

4月、演劇専攻正規学生となる。12月2日、吉村を河竹と改姓。

1951年(昭和26年)/26~27歳

3月、成城高校講師辞任。早大卒業。卒業論文は物理学・心理学の方法を導入した試論「演劇における場の理論序説」。4月、早大旧制大学院に入学、新関良三博士に西洋演劇史、演劇論の指導を受け、比較研究の意味を学ぶ。尾島智恵子(元前進座女優児島智恵子)と結婚。6月、早大文学部助手就任。9月、最初の論文「歌舞伎化された『ベニスの商人』で筆名を登志夫とする。

1952年(昭和27年)/27~28歳

5月、日本演劇学会で「演劇における一試論~場の理論序説」発表。学会発表の初め。10月、東京都成人学校で1週間「演劇」講義。講座出講の初め。この年より”歌舞伎と近代”に関心を深める。

1953年(昭和28年)/28~29歳

3月、福村書店から「日本の芸能」処女出版。6月、早大大学院研究発表会で修了論考「明治展覧劇の研究」発表。7月、開国百年記念久里浜ページェント「ペリー来航」演出助手。12月5日、息男勝芳嚥下性肺炎のため生後四か月で死亡。

1954年(昭和29年)/29~30歳

3月、早大大学院(旧制)修了。4月、早大文学部講師。「演劇概論」(一・二文)、「芸術演習」(一文)、「芸能演習」(二文)を担当、演劇についての初講義。7月、ドルーテンの邦訳「現代戯曲創作法」刊。8月、世田谷区廻り沢の農家の一角に仮住。

1955年(昭和30年)/30~31歳

3月、廻り沢から成城に戻る。5月、外務省研修所で「日本の演劇」連講。以後28年にわたり諸官公庁研修所に出講。7月、早大夏季学期夜の部で20日間「演劇概論」担当、以後10年間毎夏つづける。10月、NHKテレビ学校放送「歌舞伎」。放送初出演。

1956年(昭和31年)/31~32歳

4月、早大文学部専任講師。5月、日本演劇学会幹事。6月、武智鉄二主幹雑誌「演劇手帖」同人となるが二号で終る。7月、創作ラジオドラマ「七夕」ラジオ九州にて放送。10月、成城大学文学部芸術コース卒業論文指導ゼミ担当。

1957年(昭和32年)/32~33歳

8月13日、ハーバード・エンチン研究所(Harvard-Yenching Institute)に客員研究員(Visiting Scholar)として招かれ、比較演劇研究のためアメリカへ単身出発。自炊生活。ニューヨーク・ボストン等で観劇多数。最初の海外行。12月、父高血圧性脳動脈痙攣で倒れる。(在外中)

1958年(昭和33年)/33~34歳

11月11日、アメリカ滞在後二カ月半にわたり、イギリス、北欧、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリー、ギリシア、エジプト、香港を単身旅行して帰国。

1959年(昭和34年)/34~35歳

1月、病父に代わり子供歌舞伎教室講師グループに加わる(~1991年、33年間)。4月、早大文学部助教授。共立女子大学(以後10年間)、成城大学(以後4年間)各非常勤講師、「日本演劇史」担当。9月、「早稲田大学新聞」で〝比較演劇学″および学際的研究の必要を提唱。11月、「朝日新聞」に演劇時評、「日刊スポーツ」に演劇月評連載はじめる。新聞劇評の初め。12月、最初の論文集「演劇の座標」刊。この年智恵子(翌年急逝)と離婚。

1960年(昭和35年)35~36歳

1月、目白学園特殊教室に出講。3月、父の古稀記念出版「牛歩70年」の題名提案、編集、装幀。5月27日、史上初の歌舞伎アメリカ公演(ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ)に文芸顧問として同行(~7月17日)。7月、文部省芸術祭演劇部門審査委員(1974年まで断続的に)。11月、神奈川芸術フェスティバルに歌舞伎解説(1969年まで)。

1961年(昭和36年)/36~37歳

1月、古典日本文学全集26「歌舞伎名作集」研究篇に「外から観た歌舞伎」を発表、比較演劇研究の具体的端緒となる。3月、文部省芸術選奨(演劇及び評論部門)選考委員(1987年まで断続的に)。4月、スタンフォードセンター(Stanford Center for Japanese Studies)で“History of Japanese Literature”、英語による講義の最初。5月、歌舞伎座「謎帯一寸徳兵衛」、補綴・監修の初め。6月24日、歌舞伎ソ連公演に文芸顧問として同行(~8月10日)。11月、「自警」誌に「名作戯曲物語」(後「名舞台を読む」上・下となる)を長年連載し、警官と家族の文化向上に貢献したとして警視総監から感謝状を受ける。

1962年(昭和37年)/37~38歳

2月、嵌頓性内外痔核のため国立世田谷病院に入院、手術。退院後湯河原で静養、完治。4月、早大比較文学研究グループ委員。12月、自作写真入り旅行記「ヨーロッパ歴史旅情」刊。

1963年(昭和38年)/38~39歳

1月23日、未明に父(74歳)胃潰瘍で大量吐血、日本医大病院に入院。2月12日、父、手術。手術着にて立会い観察。4月、早大国際部兼担、”Performing Arts:Theatre”担当(以後16年間)。武蔵野美術大学文学部非常勤講師、「日本演劇史」担当(以後2年間)。日本演劇協会理事(以後33年間)。10日、父退院。8月、毎日放送テレビ「真珠の小箱」に古能面取材と出演のため吉野天川村を訪う。文部省国際文化課主催「日米間の文化交流に関する懇談会」の演劇部門委員。11月、ユネスコ「東西演劇シンポジウム」(International Simposium on Theatre:East and West) に日本代表の一員として出席、発表。

1964年(昭和39年)/39~40歳

2月、東京オリンピック委員会の芸術展示「歌舞伎」委員。3月、白木屋の「シェイクスピア生誕400年展」でThe Japan Punchのハムレット独自珍訳をみる。このころから日本のシェークスピア、とくにハムレット移入史に関心を深める。4月、早大文学部教授。日本演劇協会常任理事。7月、「新劇」に「ハムレットの軌跡」連載はじめる(~1965年10月、以後は書下ろす)。10月14日、佃屋食品工業株式会社社長岩崎猛・トクの次女良子(22歳)と結婚。11月、国立劇場基礎資料としての歌舞伎作品演目カード作成協力。

1965年(昭和40年)40~41歳

4月、早大大学院文学研究科委員。「比較演劇研究」「演劇演習」担当。早大国際部運営委員。玉川大学文学部非常勤講師、「西洋演劇史」担当(以後二年間)。5月11日、ユネスコ派遣研究員としてヨーロッパ演劇、とくに夏芝居および国立劇場視察のためソ連、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランドへ出発(~9月)。8月18日、長女出生(在外中)。10月、ベルリンで歌舞伎ヨーロッパ初演に文芸顧問として合流。日本からの便りで父の肺癌を知る。11月1日、ベルリン、パリ、リスボンの公演を終って帰国。

1966年(昭和41年)/41~42歳

4月、東京教育大学文学部非常勤講師、「日本演劇史」担当(以後3年間)。10月、文部省大学設置審議会芸術学部門専門委員(以後6年間)。国立劇場専門委員。11月、モントリオール万博歌舞伎公演アドバイザー。早大比較文学研究会で公開講演「比較演劇の方法と課題」。

1967年(昭和42年)/42~43歳

7月、文部省主催青少年芸術劇場の講師として四国巡行(以後3年間)。8月、文部省芸術課海外派遣研修員審査委員。東京都教育庁文化課児童演劇祭審査委員。11月15日、父繁俊肺癌にて歿、78歳。19日青山葬儀場で葬儀告別式。12月、「比較演劇学」刊。

1968年(昭和43年)/43~44歳

4月、「比較演劇学」により昭和42年度芸術選奨文部大臣新人賞受賞。東京都立大学人文学部非常勤講師、一般教育「演劇」担当(1年間)。「朝日新聞」歌舞伎劇評担当(以後5年間)。15日、芸術選奨を祝う会(日活国際ホテル)。5月、日本演劇学会理事(~1996年)。7日、次女出生。6月4日、メキシコオリンピック記念文化使節能楽団の文芸顧問としてアメリカ、メキシコへ出発(~27日)。8月、「朝日新聞」「土曜の手帖」欄執筆陣に参加。9月、ユネスコ主催「文化交流研究国際会議」International Round Table on the Relations between Japanese and Western Artsに出席、発表。10月、「名作歌舞伎全集」全25巻共同編集開始。人形町三丁目町会明治百年記念事業「玄冶店碑」建立除幕式に撰文者として参列。浅草神社境内に台東区百年記念事業「河竹黙阿弥顕彰碑」建立除幕式に参列。

1969年(昭和44年)/44~45歳

4月、東京芸術大学美術学部非常勤講師、「演劇論」担当(以後ほぼ隔年に1979年3月まで)。5月、文化庁青少年芸術劇場企画委員。東京都芸術文化団体連絡協議会委員。7日、三女出生。6月、松竹大谷図書館理事(~2010年)。Harvard-Yenching Visiting Scholars AssociationのJoint-MeetingにChairman。11月、国立劇場「蔦紅葉宇都谷峠」補綴・演出。亡父三回忌記念として故郷飯田市市長室に「河竹文庫」を寄贈。

1970年(昭和45年)/45~46歳

1月、東京都郷土芸能大会実行委員会委員。2月、「縮屋新助」のモデル調査に新潟県小千谷、十日町を訪う。4月、武蔵大学文理学部非常勤講師、「日本演劇史」担当(以後2年間)。12月、国際演劇協会(ITI)日本センター常任理事。「朝日新聞」日曜版「珍客来訪」欄に大竹省二来訪、包丁につき対談と実演。包丁趣味知られ原稿や取材放送などはじまる。

1971年(昭和46年)/46~47歳

3月13日、外務省および日本文化財団の派遣でノルウェー、ロンドン、パリ、ローマ、ウィーン、ケルン、ミュンヘンを講演旅行(~4月9日)。5月、芸能史研究会評議員。7月、NHKTV「わが家の自慢料理」包丁・料理番組初出演。8月、日本橋三越のノルウェー国立劇団初来日記念「イプセン展」監修。10月、東京大学文学部非常勤講師、美学特講「比較演劇論」担当(以後1972、82年度)。12月、ユネスコアジア文化センターの「日本の現代社会における伝統文化に関する調査」委員会委員。

1972年(昭和47年)/47~48歳

3月、群馬県芸能協会・演劇研究会20周年記念として会長大竹良一郎により亡父「芸能碑」伊香保に建立、除幕式に参列。4月、都民劇場歌舞伎サークル企画委員。イプセン紹介の功としてノルウェー国王から聖オラフ勲章受章。5月、NHKTV大相撲中継にゲスト出演。26日、歌舞伎ロンドン、ミュンヘン初演に文芸顧問として同行(~6月28日)。11月、日本ペンクラブ主催「日本文化研究国際会議」に出席。25日、神奈川県逗子市小坪4-845-8に新築移転。12月、日本文化会議大磯ロングビーチ大会シンポジウム「日本美は可能か」にパネリスト。文化庁より第二国立劇場設立準備協議会の演劇部会および事業専門委員会委員の依頼を受ける。

1973年(昭和48年)/48~49歳

1月、浅草寺五重塔再建記念「浅草今昔展」に黙阿弥遺品出品。3月、「大正会」に入会。6月、「産経新聞」直言欄担当(三か月間)。7月、衆議院法務委員会刑法改正委員会で、参考人として尊属殺人問題につき意見具申。12月、神奈川県民俗芸能保存協会理事(以後16年間)。

1974年(昭和49年)/49~50歳

3月、大谷竹次郎賞選考委員(~2013年)。4月、放送文化基金第4審査委員会(後に事業援助部門)委員(以後10年間)。文化庁こども芸術劇場企画委員。6月、早大学生任意団体「味覚嗜好研究会」会長。9月27日、ウィーン大学演劇学研究所Institut fur Theaterwissenschaft an der Universitat Wienに客員教授として半年間単身赴任出発、自炊生活。10月、「続比較演劇学」刊。11月、東京大学から比較演劇論考「近代日本演劇とハムレットーハムレット移入史の研究」により文学博士の学位受領。子供歌舞伎教室150回につき表彰される。(在外中)12月、神奈川県立県民ホール運営協議会委員。国立劇場評議員(~1998年)。クリスマス休暇に妻を招きウィーン、スペイン、イタリア、ギリシア、エジプト、ケニアを旅行。(在外中)。

1975年(昭和50年)/50~51歳

2月6日、トロント大学講義に立寄って帰国。早大比較文学研究室室長(4年間)。8月、国際演劇協会(ITI)日本センター主催「オーストリア演劇展」企画協力。12月、NHKラジオ市民講座「歌舞伎」連講。

1976年(昭和51年)/51~52歳

5月、オーストリア科学アカデミーより、中村元博士につぐ日本人二人めの在外会員Korrespondierende Mitglied der Osterreichischen Akademie der wissenschaftenに推挙される。神奈川芸術祭選考委員(以後10年間)。7月、文化庁文化財保護審議会第四専門調査会芸能部会専門委員。10月、「季刊芸術」に「作者の家」連載はじめる。

1977年(昭和52年)/52~53歳

3月、早大弓道部長(~1990年)。6月、神奈川芸術祭演劇脚本コンクール審議委員(以後10年間)。東京文化会館運営協議会委員。8月、ユネスコ国内委員会委員。国立婦人教育会館運営協議会委員。12月、学位論文により芸能学会から芸能特別賞受賞

1978年(昭和53年)/53~54歳

2月22日、歌舞伎オーストラリア初演に文芸顧問として同行(~3月20日)。7月、ユネスコ東アジア文化研究センターのアジア芸術文化調査長期研究グループに小泉文夫に招かれて参加。民法賞東京地区審査委員。「演劇概論」刊。9月1日、ウィーン大学演劇学研究所客員教授として次女三女を伴い二度めの赴任出発、自炊生活。途次国際演劇学会連合ベニス会議に手席、発表。赴任中ボン大学、コペンハーゲン大学へ出講。12月、「産経新聞」随筆欄のため「渡欧日記から」(父と娘のウィーン日記)を書きはじめる。(在外中)

1979年(昭和54年)/54~55歳

1月、ウィーン日本人学校校歌作詞。3月18日、帰国。4月、ユネスコアジア文化センター評議員(~2001年3月)。新宿文化センター運営審議会委員。早大大学院文学研究科演劇専攻連絡委員(~1986年3月)。9月、ポーラ伝統文化振興財団理事(~2011年3月)。10月、朝日カルチャーセンター横浜で「歌舞伎~美とこころの探求」開講(9回)。12月、国立放送教育開発センター共同研究「日本文化の国際性と国際化」に参加。

1980年(昭和55年)/55~56歳

1月、NHK国際放送番組審議会委員(~1987年12月)。6月、早大エクステンションにて「歌舞伎の世界」2回連講。NHK放送文化ライブラリー諮問委員会委員。8月「作者の家」刊。10月、NHK教育テレビ大学講座「近代演劇の展開」はじまる(半年間)。「作者の家」で毎日出版文化賞受賞。12月、最初の随筆集「幕間のひととき」刊。

1981年(昭和56年)/56~57歳

2月、「作者の家」で読売文学賞受賞。4月、NHKラジオ”日曜名作座”で「作者の家」放送(4回)。5月、富士通経営研修所FIMAT研修に「演劇」講義(~1994年)。8日、「作者の家」受賞を祝う会(東京会館)。6月、「読売新聞」自伝抄欄に「書抜き帳」連載はじまる(20回)。7月1日、ウィーンの第1回ヨーロッパ歌舞伎会議に出席、基調講演「内外の歌舞伎研究」(~10日)。8月、深川高橋に「芝翫河岸碑」建立、撰文者として除幕式に参列。9月27日、国際交流基金の派遣により、講演と市川猿之助訪欧公演文芸顧問のためベルリン、パリ、ロンドンへ出発(~10月11日)。10月、早大勤続30年で表彰される。12月17日、母左大腿骨骨折、入院。

1982年(昭和57年)/57~58歳

1月、ポーラ伝統文化振興財団のポーラ章選考委員長(~2004年10月)。2月、皇太子(元上皇)・同妃両殿下に「伝統演劇の特質・地位および将来について」御進講。4月、都民劇場 評議員(~1988年)。神奈川文学振興会評議員。15日義父岩崎猛歿、73歳。6月17日、アメリカのJapan Society創立70周年記念歌舞伎公演に、文芸顧問としてニューヨーク、ワシントン、ノックスビルに同行。9月、右大転子上部化骨性筋炎で一カ月病臥。11月、早大大学院ゼミと熱海双柿舎に合宿演習、以後合宿毎年恒例となる。12月、神奈川県立青少年センター運営協議会委員。「銀座百点」忘年句会メンバーに加わる(~2013年)

1983年(昭和58年)/58~59歳

1月、宮中歌会始に招かれる。東京都文化振興会理事。「舞台の奥の日本」で東京海上各務記念財団優秀著者賞受賞。5月、「近松門左衛門」でサンケイ児童出版文化優秀図書賞受賞。季刊「日本の美学」創刊編集同人。8月、国際アジア北アフリカ人文科学会議東京大会に運営委員、第12部門演劇のConvenerならびにChairman。11月3日、ウィーンの第2回ヨーロッパ歌舞伎会議に出発、基調講演「道行の独自性」(~13日)。外務省情報文化局「芸術交流文科会」委員。国立統計数理研究所の「感情の国際比較」共同研究者として歌舞伎海外公演アンケート調査の統計的研究開始。

1984年(昭和59年)/59~60歳

3月26日、外務省文化交流調査団員としてパリに出張(~4月1日)。11月28日、母みつ脳梗塞で歿、87歳。12月、NHKラジオ”私の本棚”で「作者の家」放送(18回)。

1985年(昭和60年)/60~61歳

1月、NHKTV「レッツ・ダンス」に妻をパートナーとしてゲスト出演。2月、カルコン(日米文化教育合同委員会)の日本側パネル委員。早大百周年記念芸術功労者先行委員。文化庁「民間芸術活動振興に関する検討委員会」座長。セイコきもの文化財団理事。3月29日、歌舞伎座における松竹90周年記念・十二代目市川團十郎襲名披露古式顔寄せ手打式に立作者に代わり狂言名題披露。4月、放送番組向上委員会委員(~1990年3月)。5月、日本エッセイストクラブ会員に推挙される。28日、国際交流基金の派遣により北欧、ウィーン、ベルリンの講演に出発、ストックホルムでスウェーデン国王・同妃、日本国皇太子(現上皇)・同妃両殿下に能・狂言御説明(~6月15日)。6月、「日本経済新聞」に随筆「包丁のある書斎」挿絵とも連載はじまる(71回)。7月4日、團十郎襲名訪米歌舞伎の文芸顧問としてニューヨーク、ワシントンに同行(~31日)。9月、日本比較文学会会長(~1993年)。20日、EAJS(ヨーロッパ日本研究者会議)に招待者・発表者としてパリへ出張(~28日)。10月、第40回芸術祭の国立劇場公演「今様須磨の写絵」につき皇太子(現上皇)同妃両殿下に御説明。12月、永山松竹会長一行のお伊勢参りに参加、毎年恒例となる。

1986年(昭和61年)/61~62歳

5月、国際日本文化研究センター準備室委員。6月、国立劇場歌舞伎鑑賞教室(6・7月)解説監修。7月、カルコン日本大会でパネル委員ならびに舞台芸術小委員会委員長。9月、稲盛財団「京都賞」審査専門委員。10月、浩宮(現天皇)殿下に「忠臣蔵」御進講。12月、都立中央図書館朗読サービス(盲人のための)で「日本のハムレット」全篇テープ完成。

1987年(昭和62年)/62~63歳

2月3日、腰と左脚全体の激痛のため済生会神奈川県病院に一カ月入院。椎間板ヘルニアによる神経痛との診断。軽微の糖尿病も発見。減量静養。3月3日退院。3月25日、国際交流基金の派遣により在中国日本学研究センター講師として長女を伴い北京へ赴任出発、「日本の演劇」担当。同月「四季の味」に随筆欄連載はじまる(5年間)。5月、紫綬褒章受章。(在

中)。6月、一時帰国、国際比較文学会東京大会(1991年)のための準備会議、シンポジウムに出席、23日、妻同道北京へ再赴任。7月31日、帰国。9月、本年度文化勲章・文化功労者選考委員。セゾン文化財団理事(~2009年)。

1988年(昭和63年)/63~64歳

4月、都民劇場理事。放送文化基金賞選考委員長および同賞個人・グループ部門専門委員会委員長(~1996年)。5月13日、パート・ホンブルク(西独)における演劇研究国際会議「異文化間の演劇交流」に出席、発表(~5月25日)。8月31日、ソウル・オリンピック記念芸術祭の国際演劇フォーラムに出席発表、および歌舞伎韓国初演の文芸顧問としてソウル、プサンへ出発(~9月14日)。11月、神奈川文化賞受賞。左脚神経痛再発、三週間病臥。

1989年(昭和64年・平成元年)/64~65歳

1月、「歌舞伎美論」刊。2月、東京都文化懇談会委員。フードピア金沢食談講師(~1994年)。6月、早大文学部教授会にて選択定年による退任正式に承認。8月、文化庁の文化政策推進に関する研究協議協力者。9月15日、ユーロパリア’89ジャパン関連の講演および歌舞伎公演の学芸顧問、ユーロパリア日本委員会としてブラッセル、東ベルリン、ドレスデン、ウィーンへ出発(~10月26日)。11月、稲門ライブラリー(丸善)の早大文学部百年記念「ワセダと現代の作家たち」展に「作者の家」「包丁のある書斎」とスケッチ1点展示。

1990年(平成2年)/65~66歳

1月、神奈川新聞「週言」欄連載。早大最終講義「比較演劇学の原点」。3月、早大選択定年退任。4月、早大名誉教授。共立女子大学文芸学部教授、大学院兼担。NHK文化センター講師として「日本の伝統演劇~普遍と特殊」(~6月)。6月、日本演劇学会会長(~1996年)。9月、きもの美術館第6回展覧会「歌舞伎衣裳と河竹黙阿弥」。10月、NHK文化センター講師として「日本の伝統演劇~ドラマの世界」(~12月)。28日、浅草「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」撰文、除幕式。11月3日、「歌舞伎美論」により第一回小泉八雲賞、ダブリン市長賞受賞

1991年(平成3年)/66~67歳

3月、日本舞台技術総合研究センター顧問。4月14日、伊豆韮山町に伊東八重姫記念「静堂」撰文、落成式。6月、「別冊文藝春秋」に「孤影の人」連載はじめる(6回、後「黙阿弥」として刊行)。7月、外務大臣表彰。8月、日本比較文学会主催・第十三回国際比較文学会東京大会ICLA‘91TOKYOに組織委員長。9月、日本オペレッタ協会評議員。子供歌舞伎教室200回記念に当り東京都教育委員会から表彰。10月、「作者の家」の舞台化「糸女」みなと座にて初演(西舘好子主宰制作・久保田千太郎脚本・西川信廣演出・左幸子主演・監修河竹登志夫)。11月、出雲阿国座振興財団評議員。

1992年(平成4年)/67~68歳

1月、日本橋三越本店にて黙阿弥没後100年記念「黙阿弥と江戸歌舞伎」展に黙阿弥遺品出品。4月、世界劇場会議組織委員。7月、NHK教育テレビ「日本の伝統芸能・歌舞伎鑑賞入門」講師(3年間)。8月、「漂流季譚西洋劇」の河鍋暁斎筆行灯絵の黙阿弥下絵発見、確認。9月、神奈川県紅葉ヶ丘文化ゾーン基本構想策定委員会委員。

1993年(平成5年)/68~69歳

2月、「黙阿弥」刊。3月18日、上海・蘇州・紹興・杭州を妻を伴い旅行(23日帰国)。4月、早大演劇博物館にて「没後100年・河竹黙阿弥展」。飯田市立図書館にて「酒は道づれ」を視覚障害者向け朗読録音発行。7月、神奈川芸術文化財団理事。都民劇場歌舞伎サークル企画委員長(~2010年)。8月、日本演劇協会会長。28日、国際交流基金派遣によりサンフランシスコ、ロサンゼルス、メキシコシティへ歌舞伎講演に出発(9月9日帰国)。9月、文化庁民間芸術活動助成会運営委員。10月、文化庁文化財保護部「近代の文化遺産の保存と活用に関する調査研究」協力者会議委員。

1994年(平成6年)/69~70歳

1月、新日鉄文化財団理事。2月、高松宮記念世界文化賞・アジア推薦委員会委員。日本演劇協会会長就任懇親「河竹流包丁会」。3月、日本民族芸能国際交流協会理事。映画「黙阿弥の人と作品」(国立劇場)監修。長野県社会福祉センターより「黙阿弥」を視覚障害者向け朗読録音発行。7月4日、三大伝統演劇(能・文楽・歌舞伎)による「俊寛」公演の総合監修としてウィーン、ワルシャワ、プラハ、ロンドン巡演に同行、21日帰国。8月28日、日本演劇協会・第9回「創立45周年記念演劇人祭」委員長。10月、国際交流基金賞受賞。11月26日、松竹百年記念・古式顔寄せ手打式に狂言名題披露(歌舞伎座)。12月10日、国際交流基金・古希・著作70冊・結婚30年につきウェスティンホテル東京にて「河竹登志夫先生を祝う会」。

1995年(平成7年)/70~71歳

3月、共立女子大学定年退任。松竹顧問。4月29日、勲三等旭日中綬章受章。5月、葉山文化塾顧問・講師。福岡ドーム前庭の暖手プロジェクト立体手形採取。7月1日、日中関係シンポジウムのため国際交流基金派遣により北京・上海へ出発、6日帰国。神奈川芸術文化財団演劇企画委員。10月1日、芸術祭第50回記念式典にて天皇・皇后両陛下の御説明者。11月、「河竹登志夫原画展」(14日~18日、銀座ポーラ展示室)。

1996年(平成8年)/71~72歳

1月、日経アジア賞文化部門審査委員会座長。歌舞伎座筋書に巻頭の絵と文連載(1年間)。日本経済新聞夕刊随筆「プロムナード」欄に連載(6日~6月29日、毎土曜日25回)。3月23日、外務省文化交流ミッションの一員としてベトナム訪問、31日帰国。5月31日、日本演劇協会前会長北條秀司の演劇協会葬・葬儀委員長。6月、文化庁芸術祭執行委員会委員長。第31回長谷川伸賞受賞。7月4日、ロンドン・グローブ座復元開場記念公演・五十田安希一人芝居の監修と開演前スピーチ、NHK教育テレビのイギリスの演劇教育取材ロケおよび「マクベス」ゆかりのスコットランド見学のため、妻同道イギリスへ出張、19日帰国。9月1日、バンクーバーとロッキー方面へ妻同伴出発、8日帰国。10月16日、香港第16回アジア・アートフェスティバルに市村萬次郎、中村吉右衛門のKabuki for Everyone同行、「日本の伝統演劇と現代」講演、21日帰国。11月、国立文化財研究所主催シンポジウム・第20回文化財お保存及び復元に関する国際研究集会「歌舞伎・変遷と展望」に専門委員・基調講演(12日~14日)。

1997年(平成9年)/72~73歳

2月26日、大阪松竹座新築開場記念・古式顔寄手打ち式に狂言名題披露。3月、日本アマチュア演劇連名顧問。19日、中国上海、舟山、寧波、紹興訪問(~23日)。4月、絵はがき「河竹登志夫自選画集」作成。19日、日本郵船「飛鳥」世界一周クルーズの後半周講師として乗船のため妻同道リスボンへ出発。6月5日、飛鳥船上にて講演5回、ポルトガル、アメリカ、メキシコ、パナマ、コスタリカを周回、サンフランシスコ、ホノルルを経て横山帰港。7月、第2回CIOFF・ワールドフォークロリアーダ日本組織委員会理事。8月、鶴岡八幡宮の依頼によりぼんぼり祭献灯画寄進(以後毎年)。11月、「河竹登志夫近作画展」(18日~22日、銀座ポーラ展示室)。

1998年(平成10年)/73~74歳

3月、文化庁「近代の生活文化・技術についての調査協力者会議」主査。6月、「河竹登志夫スケッチ展」(23日~7月言5日、山形県羽黒町松が岡ギャラリーまつ)。日本美術協会評議員。8月、長野県飯田市座光寺に竣工の市立「竹田扇之助記念・国際糸操り人形館」竣工に当り名称選定・揮毫・「竹田氏事歴」撰文。9月、日本芸術文化振興会基金部運営委員。10月、全国邦楽コンクール審査員。大阪芸術大学客員教授。

1999年(平成11年)/74~75歳

2月、日本文化生涯学習振興会21(中央工学校主宰)軽井沢南ヶ丘倶楽部千ヶ滝老松鏡板制作競技審査員。10月26日、出版打合せ、大阪芸大・大手前女子大の特別講義、全国邦楽コンクール審査会ほかのため、京都、大坂、熊本、西宮方面へ出発、途中須磨寺・一谷古戦場を訪う(~11月3日)。11月、集団日本舞踊21の会長。12月7日、「河竹登志夫歌舞伎論集」刊。

2000年(平成12年)/75歳~76歳

3月、「『河竹登志夫歌舞伎論集』をはじめとする演劇評論・研究」の業績に対し、恩賜賞・日本芸術院賞決定。授賞式は6月19日。21日、「歌舞伎論集」出版記念・河竹登志夫さんを祝う会(東京会館)。24日、葉山の堀口すみれ子邸にて天皇・皇后両陛下と昼食会。12月25日、横浜栄共済病院にて心臓冠状動脈カテーテル造影剤検査、狭心症のため以後毎日服薬、毎月定期健診。

2001年(平成13年)/76~77歳

1月、天皇・皇后・紀宮様・堀口すみれ子来訪、昼食会。雑誌「演劇界」に巻頭随筆連載はじめる。2月、ユネスコ他主催〝無形文化遺産保存に関する国際ワークショップ”にて基調講演。3月、日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員会議長。5月、「歌舞伎」刊。8月、宇田川時代の乳兄弟佐藤武司と77年ぶりの再会。11月3日、文化功労者顕彰。12月、岩波現代文庫版「作者の家」上・下刊。

2002年(平成14年)/77~78歳

9月、早稲田大学芸術功労者表彰。12月、松竹株式会社の企画アドバイザー就任。

2003年(平成15年)/78~79歳

3月、財団法人日本演劇興行協会理事。第54回NHK放送文化賞受賞。早大演劇博物館にて芸術功労者表彰記念「河竹登志夫展」。

12月、歌舞伎座筋書連載「歌舞伎400年の旅」完結。

2004年(平成16年)/79~80歳

1月、国立劇場おきなわ開場式に評議員会議長として出席。9月、「かぶきロード」刊。11月、国際交流基金主催・歌舞伎国際交流研究会に特別顧問。

2005年(平成17年)/80~81歳

4月、財団法人放送文化基金理事長。8月、日本演劇協会創立55周年記念演劇人祭(歌舞伎座)委員長。NPO法人「日本の美しさを伝える会」理事。歌舞伎座再生検討委員会。10月、「続々比較演劇学」刊。三部作完結。12月、日本芸術文化振興会(国立劇場)顧問。

2006年(平成18年)/81~82歳

7月、横浜栄共済病院にてMRI検査、腰部脊柱管狭窄症を確認。11月、イプセン没後100年記念フェスティバル実行委員長、「日本におけるイプセンの受容」講演。

2007年(平成19年)82~83歳

1月8日、源通寺墓所67年ぶりに改修、読経再埋骨。4月25日、明治天覧劇120周年記念天覧歌舞伎「勧進帳」が国際文化会館にて実現、総合監修と解説。日本演劇協会名誉会長。9月、「日本の古典芸能~名人に聞く究極の芸」刊。「演劇界」に随筆「かぶき曼陀羅」連載はじめる。12月、源通寺に黙阿弥モニュメント(碑表撰文)完成。

2008年(平成20年)83~84歳

5月10日、江東区新大橋に事務所兼仕事場として移住。7月1日、「日経新聞」の「こころの玉手箱」取材。3月、「産経新聞」の「話の肖像画」取材。10月、早大演劇博物館創立80周年に当り亡父へ「名誉館長」を追贈の式典にて謝辞。

2009年(平成21年)/84~85歳

1月2日、歌舞伎座さよなら公演初春大歌舞伎古式顔寄せ手打ち式にて狂言名題披露。「歌舞伎座ものがたり」連載はじめる。

2010年(平成22年)/85~86歳

5月、「日経新聞」の「私の履歴書」連載。7月、日本演劇協会60周年記念演劇人祭で特別功労者表彰

2011年(平成23年)/86~87歳

6月、第1回早稲田大学栄誉フェローの称号受領

【以上、河竹登志夫  編】

【以下、家族編】

5月、この頃より逗子市小坪の家へ通い、本や資料の整理を始める。6月、講談社文芸文庫版「黙阿弥」刊。10月、逗子宅の資料を、国立劇場情報館、早大演劇博物館、松竹大谷図書館、日本近代文学館へそれぞれ寄贈。

2012年(平成24年)/87~88歳

5月、日本舞踊協会名誉顧問就任。7月、広尾・日赤医療センターで腰部脊柱管狭窄症の手術を受け、8月1日まで22日間入院。10月、大腸憩室出血のため入院。「梅津貴昶の会記念別会」の「茨木」監修。秋頃からは、複数の病院で治療するが、背中や腰脚の痛みは悪化、原稿も口述となる。車いすを使っての移動が増える。

2013年(平成25年)/88歳

体調はますます悪化するが、歌舞伎座新開場についての取材や、黙阿弥没後120年の取材など、多数受ける。3月26日、歌舞伎座第5期再開場古式顔寄せ手打ち式にて狂言名題披露。手の震えがあり、万が一に備え、書面を暗記して臨む。正座ができないため、セリを調節してもらい、歌舞伎座舞台㈱による特製車椅子を使用してつとめた。4月2日、東大出版会より「新版歌舞伎」刊。4月9日の歌舞伎座へ天皇皇后両陛下ご来臨につき、陪席の相談を受けるが、ご辞退、11日に両陛下にお詫びのお手紙を出す。12日、ストレッチャーにて新大橋の自宅から日赤医療センターへ。そのまま入院。13日、皇后陛下からご心配のお電話をいただく。14日より、発熱、肺炎症状。延命治療を希望しない旨を書面にしており、病院に渡し、緩和ケア。酸素を送る機械を常に装着しなくてはならなかったが、たまにビールで口をしめらせると喜び、最後の日まで会話できた。

5月6日、感染性心内膜炎のため、12時28分歿。享年88歳。

9日、青山葬儀場で通夜、10日告別式。弔辞は、松竹の大谷信義会長、ともに長年のお付き合いだった狂言師の野村万作氏、女優の藤村志保氏。天皇・皇后両陛下より白菊の花籠、天皇陛下より祭粢料を賜る。6月23日、中野区上高田の菩提寺源通寺に埋葬。法名・釈俊雄居士。7月4日、文化庁より正四位旭日重光章追贈


2015年(平成29年)

11月、演劇出版社から「かぶき曼陀羅」刊。2007年9月号~2013年7月号まで演劇界に71編にわたり連載した同名エッセイと、2010年5月の日経新聞「私の履歴書」を収録した単行本。

2016年(平成28年)

1月2日〜25日、三越劇場にて劇団新派による「糸桜〜黙阿弥家の人々」上演(「作者の家」原作)。

9月10日~11月10日、福島県立博物館・常設展部門展示室にて、「かえる曼陀羅~100年カエル館から河竹登志夫さんへのオマージュ~展」開催。

2021年(令和3年)

11月29日~30日、日本橋劇場にて「糸桜~黙阿弥家の人々 ふたたび~」再演(「作者の家」原作)。


【演劇関係活動目録】

 この目録には監修・補綴・顧問など演劇の実演に関する活動のほか、執筆、講

 演・講座、放送以外の監修・解説などの活動記録を掲げた。

1950.11/芸術祭主催第1回全国民俗芸能大会(共立講堂)制作助手

1951.9/円形劇場試演会「勇者」「次郎案山子」 (早大大隈小講堂) 舞台監督

1951.1/ポール・グリーン歓迎公演「白い晴着」(早大大隈講堂) 演出助手

1951.11/日本女子大円形劇場英語劇演出補助

1952.10/早大70周年記念公演「霊験」「大隈重信」「美術の秋」演出助手

1952.11/全国青年演劇大会(日本青年館) 舞台補助

1953. 7/開国百年記念久里浜ペ-ジェント「ペリ-来航」演出助手

1956.7/ラジオ九州放送劇“女の幸福”シリ-ズに「七夕」創作放送(阿里道子ほか出演)

1957.4/学研観光スライド「文楽」3巻編集解説

1959.1/子供歌舞伎教室講師( ~1991年9月)

1960.5/歌舞伎アメリカ初演文芸顧問

1961.5/歌舞伎座「謎帯一寸徳兵衛」補綴

1961.6/訪ソ歌舞伎文芸顧問

1963.9/新橋演舞場「三人吉三」校訂

1963.12/東横ホ-ル「弁天小僧」校訂

1964.2/オリンピック芸術展示「歌舞伎」委員

1964.4/東横ホ-ル「小猿七之助」監修

1964.6学研/「現代新百科事典」演劇芸能部門編集顧問

1965.10/歌舞伎ヨ-ロッパ初演文芸顧問

1968.6/アメリカ・メキシコ能公演文芸顧問

1968.10/人形町「玄冶店碑」撰文

1968.10/東京創元社「名作歌舞伎全集」共編

1968.10/吉川弘文館「歴史大辞典」演劇部門監修

1968.10/TBSブリタニカ「国際大百科事典」演劇部門監修

1969.10/国立劇場「宇都谷峠」補綴演出

1972.5/歌舞伎ロンドン・ミュンヘン公演文芸顧問

1973.9/国立劇場「黒田騒動」監修

1974.8/小学館「万有百科大事典」音楽演劇篇編集顧問

1974.9/国立劇場「縮屋新助」監修

1976.5/歌舞伎座「人間万事金世中」補訂監修

1976.7/NHKサ-ビスセンタ-企画制作レコ-ド「歌舞伎」編集顧問・解説

1976.7/歌舞伎座発行「歌舞伎十八番美術メダルコレクション」監修解説

1978.2/歌舞伎オ-ストラリア初演文芸顧問

1979.1/NHKサ-ビスセンタ-発行レコ-ド「歌舞伎名作選」編集委員・解説

1980. 3/国立劇場「都鳥廓白浪」監修

1980.3/歌舞伎座「十六夜清心」監修

1980.3/南座「十六夜清心」監修

1981.3/国立劇場「延命院日当」監修

1981. 6/国際交流基金制作映画 "The Edo Stage" 監修

1981.8/深川高橋「芝翫河岸碑」撰文

1982.6/歌舞伎アメリカ公演文芸顧問

1982.6/国際交流基金制作映画 " Journey to the Tenjin Woods" 監修・英語解説出演

1982.10/歌舞伎座「都鳥廓白浪」監修

1983.3/国立劇場「島ちどり」補綴

1983.12/歌舞伎座「忠臣蔵」監修

1984.4/国立劇場「腕の喜三郎」補綴

1985.2/新橋演舞場「沓手鳥孤城落月」監修

1985.3/松竹90周年記念・十二代目団十郎襲名披露古式顔寄せ手打式に狂言名題披露

1985.7/歌舞伎アメリカ公演文芸顧問

1985.9/歌舞伎座「桐一葉」監修

1986.6,7/国立劇場歌舞伎鑑賞教室監修(~2013)

1987.11/歌舞伎座百年記念古式顔寄せ手打式に狂言名題披露

1988.9/歌舞伎韓国初演文芸顧問

1989.10/歌舞伎訪欧公演文芸顧問

1990.8/国立劇場「廓文章敷島物語」(葉月会)監修

1990.10/浅草「河竹黙阿弥住居跡之碑」説明板撰文

1991.4/伊豆韮山八重姫記念「静堂由来記」撰文

1991. 6/新橋演舞場「梅暦」監修

1991.6/東京グローブ座「葉武列土倭錦絵」監修

1991. 8/国立劇場「白浪五人女」(葉月会) 監修

1991.10/みなと座「糸女」監修

1992.3/歌舞伎座「お静礼三」監修

1992.3、4/四代目梅玉・九代目福助襲名披露古式顔寄せ手打式に狂言名題披露/(歌舞伎座)1992.3(南座)1992.4

1992.8/国立劇場「筆売幸兵衛」(矢車会) 監修

1992.8/国立劇場「傾城重の井」(葉月会) 監修

1992.12/国立劇場「南部坂」監修

1993.3/国立劇場「鼠小僧」監修

1993.6/映画「黙阿弥一人と作品」(国立劇場)監修

1993.8/国立劇場「恋闇鵜飼燎火」(葉月会) 監修

1993.10/五十田安希一人芝居「松井須磨子」監修

1994.7/三大伝統演劇( 能・文楽・歌舞伎) による「俊寛」欧州公演・総合監修

1994.8/国立劇場「白浪五人男」監修

1994.11/松竹百年記念古式顔寄せ手打式に狂言名題披露(歌舞伎座)

1995.8/国立劇場「月梅薫朧夜」(葉月会) 監修

1995.11/国立劇場「縮屋新助」監修

1996.7/五十田安希一人芝居「マクベス夫人」「オフィリア幻想」監修・解説( ロンドン・グローブ座)

1997.8/酒田湊歌舞伎(勘九郎公演) 名誉顧問

1997.8/国立劇場「新累女千種花嫁」 (葉月会) 監修

1997.9/サンシャイン劇場「葉武列土倭錦絵」監修

1997.10/国立劇場「黄門記童幼講釈」監修

1998.8/飯田市立「竹田扇之助記念・国際糸操り人形館」撰題・碑表揮毫・碑表撰文、「竹田氏事歴」撰文

1998.10/全国邦楽コンクール審査

1999.1/博多座開場記念大歌舞伎展・監修

1999.2/日本文化生涯学習振興会21・軽井沢南丘倶楽部千ヶ滝大広間鏡板「老松」制作競技審査

1999. 4/国立劇場「十六夜清心」監修

1999. 4/世界劇「眠り王」(両国国技館) 監修

1999. 9/江の島大歌舞伎顧問

1999.10/全国邦楽コンクール審査

2005.4/イプセン没後100年記念事業実行委員長

2005.8/歌舞伎座再生検討委員会委員

2005.8/日本演劇協会55周年記念演劇人祭・実行委員長

2005.9/土居由理子制作・演出「ラコタの月」名誉実行委員長

2005.12/国立劇場「天衣紛上野初花」(幸四郎)監修

2005.12/日本芸術文化振興会 顧問

2005.12/東西歌舞伎交流江戸お練り(坂田藤十郎襲名記念)実行委員長

2006.12/五十田安希「女優松井須磨子」とみん特選小劇場(ヤマハ)監修

2007.4/国際文化会館・松竹共催・天覧「勧進帳」総合監修

2009.1/歌舞伎座さよなら公演・古式顔寄せ手打式に狂言名題披露読上げ

2010.7/普及版歌舞伎登場人物事典監修

2010.8/「歌舞伎座さよなら公演」DVD全8巻・共同監修(安孫子正と)

2010.8/五十田亜希「語りかけるハムレット」紀尾井ホール監修

2010.11/新橋演舞場「都鳥廓白浪」監修

2011.2/河竹家四代の石灯籠と蹲を松竹に寄託

2011.5/文化デジタルライブラリーウェブコンテンツ監修

2012.8/「誰もが役者のこの世界」紀尾井小ホール 監修

2012.10/梅津貴昶の会第20回別会「茨木」監修

2013.3/歌舞伎座新開場古式顔寄せ手打ち式に狂言名題披露読上げ

2013.3/歌舞伎座屋上庭園の黙阿弥石燈籠と蹲について説明文

【海外活動略歴】

1957.8/アメリカ、ハーバード・エンチン研究所に客員研究員として招聘され、比較演劇研究を行う(1958年ヨーロッパ諸国、エジプト、香港等を訪問して帰国)

1960.5/史上初の歌舞伎アメリカ公演(ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ)に文芸顧問として初同行

1961.6/歌舞伎ソ連公演(モスクワ、レニングラード)に文芸顧問として同行

1965.5/ユネスコ派遣研究員としてヨーロッパ演劇、とくに夏芝居および国立劇場視察のためソ連、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランドに出発

1965.10/ベルリンで歌舞伎ヨ-ロッパ初公演(ベルリン、パリ、リスボン)に文芸顧問として合流

1968.6/メキシコオリンピック記念文化使節能楽団の文芸顧問としてアメリカ、メキシコへ出発。

1971.3/外務省および日本文化財団の派遣でノルウェー、ロンドン、パリ、ローマ、ウィーン、ケルン、ミュンヘンにて講演

1974.9/ウィーン大学演劇学研究所で客員教授として半年間〝Zur Tradition des Japanischen Theaters”の講義と演習を担当

1975.2/トロント大学で講義をして帰国

1976.8/国際演劇学会連合International Federation for Theatre Researchでの大会研究発表および各国での講演のため国際交流基金から派遣されウィーン、ケルン、コペンハーゲン、東ベルリンを歴訪

1978.2/歌舞伎オ-ストラリア初演に文芸顧問として同行

1978.9/ウィーン大学演劇学研究所客員教授として、次女、三女を伴い二度目の赴任。途次国際演劇学会連合ベニス会議に出席、発表。途中ボン大学、コペンハーゲン大学へ出講。

1981.7/ウィーンの第1回ヨーロッパ歌舞伎会議European Kabuki-Conferenceに出席、基調講演「内外の歌舞伎研究」を行う

1981.9/国際交流基金の派遣により、講演と市川猿之助訪欧公演文芸顧問のためベルリン、パリ、ロンドン

1982.6/アメリカのJapan Society創立70周年記念歌舞伎公演(ニューヨーク、ワシントン、ノックスビル)に文芸顧問としてに同行

1983.11/ウィーンの第2回ヨーロッパ歌舞伎会議に出席、基調講演「道行の独自性」を行う

1984.3/外務省文化交流調査団員としてパリに出張

1985.5/国際交流基金の派遣により、北欧、ウィーン、ベルリンで講演。ストックホルムでスウェーデン国王・同妃、日本国皇太子・同妃両殿下に能・狂言ご説明。

1985.7/團十郎襲名訪米歌舞伎公演(ニューヨーク、ワシントン)に文芸顧問として同行

1985.9/EAJS(ヨーロッパ日本研究者会議)に招待者・発表者としてパリ出張

1987.3/国際交流基金の派遣により、在中国日本学研究センター講師として長女を伴い北京に赴任、「日本の演劇」を担当

1988.5/西独バート・ホンブルクにおける演劇研究国際会議「異文化間の演劇交流」International Colloquium:Theatre,Familiar and Foreignに出席、発表

1988.8/歌舞伎韓国初演(ソウル、プサン)の文芸顧問

1989.9/ユーロパリア‘89ジャパン関連の講演および歌舞伎公演の学芸顧問、ユーロパリア日本委員会委員としてブラッセル、東ベルリン、ドレスデン、ウィーンへ

1993.8/国際交流基金の派遣により、サンフランシスコ、ロサンゼルス、メキシコシティへ歌舞伎講演

1994.7/三大伝統演劇( 能・文楽・歌舞伎) による「俊寛」公演の総合監修としてウィーン、ワルシャワ、プラハ、ロンドン巡演に同行

1995.7/日中関係シンポジウムのため、国際交流基金派遣により北京、上海に

1996.3/外務省文化交流ミッションの一員としてベトナム訪問

1996.7/ロンドン・グローブ座復元開場記念公演・五十田安希一人芝居の監修と開演前スピーチ、NHK教育テレビのイギリスの演劇教育取材ロケおよび「マクベス」ゆかりのスコットランド見学のためイギリスへ出張

1996.10/香港第16回アジア・アートフェスティバルに市村萬次郎、中村吉右衛門のKabuki for everyone同行

1997.4/日本郵船「飛鳥」世界一周クルーズの後半周講師として乗船のためリスボンへ。船上にて講演5回、ポルトガル、アメリカ、メキシコ、パナマ、コスタリカを周回、サンフランシスコ、ホノルルを経て横浜帰港