朝日新聞劇評③

昭和43(1968)年4月12日夕刊が、登志夫劇評の初回でした。43歳です。これ以前にも、昭和35年から38年まで日刊スポーツで歌舞伎をはじめ、演劇評を担当したり、朝日新聞には演劇時評を寄せたりしていました。このサイトの「雑誌・新聞①(1961-1972)」に記録があります。

担当して最初の月は、歌舞伎座と国立劇場の二座の評を書いています。出演者は歌右衛門、梅幸、勘三郎、三津五郎、羽左衛門、勘弥、鴈治郎、勘九郎、扇雀、訥升、仁左衛門(劇評に登場順)……。『逆櫓』で遠見の樋口役の勘九郎に大喝采、とあります。この勘九郎さん(十八代目勘三郎)も亡くなってしまい、いま健在なのは、扇雀さん(坂田藤十郎)だけになってしまいました。52年前、「明治百年記念春の顔揃」とタイトルのついた興行でした。

こちらは同月の国立劇場。『義経千本桜』を、前月とふた月にわけて上演した後半です。「椎の木」、「すし屋」(発端に「北嵯峨庵室」の場がついたとのこと)では延若、「河連館」は猿之助が主役。出演はほかに門之助、芝翫、菊次郎。スタッフには山田庄一・松井俊諭の名前が。健在なのは猿之助さん(猿翁)、山田庄一氏です。

この「河連館(四の切)」は、猿之助が初めて宙乗りを行った記念すべき公演でした。登志夫はこう評を書いています。

「大詰、『河連館』は猿之助の狐忠信ひとり舞台。あちこちへ消えたり出たり、あげくに観客の頭上を泳ぐように踊りながら飛び去る近代稀有の宙乗り~スリル満点の活躍に拍手がわく。六代目ふうとは別の動きとケレンを主とするこの方法、若さゆえにやれようし、また、楽しく見てもいられる。猿之助には次に、せりふの抑揚の単調さの克服と、美しさのうえにトロリととけるようなうま味を期待しよう。(略)

『すし屋』といい『河連館』といい、明治の改良運動以来の東京主流の上品な美的演出と別趣の、江戸の庶民かぶきの再生をこころみた演出者(戸部銀作)の勇気も認めねばなるまい。」

この第1回宙乗りをした昭和43年4月は、猿之助の舞台人生の大きな足跡として語られ続けます。以後5844回、いろんなバリエーションの宙乗りでたくさんの観客を楽しませました。

この宙乗りや、早替り、ケレンといわれる演出の数々は、劇評家から酷評されたというのが通説ですが、少なくともこの登志夫の評からはそのようなニュアンスは読み取れません。黙阿弥は、上方でケレンを得意とした市川小團次と組んだ作者でした。そして、黙阿弥は、改良運動に苦しめられた作者でした。登志夫がお客さんが拍手喝采して喜ぶ演出を蔑むわけがなく、その勇気を讃えています。猿翁と長く組んだ戸部銀作氏も亡くなってずいぶんたちます。いつもおしゃれなネクタイを着けて、いまご自分が作っているお芝居のことを本当に楽しそうにお話しされる方でした。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)