黙阿弥終焉の地②

登志夫手書きの本所の家の地図や間取りです。
黙阿弥の敷地は620坪ほどあったそうで、自ら設計し、客間6.5畳、茶の間7畳、茶室4.5畳、使用人室3畳、台所、便所、蔵前付き二階建土蔵、物置、湯殿。そしてわたり廊下を挟んで4.5畳の黙阿弥の書斎。貸家を建てるためのスペースを除き、200坪の庭に、瓢箪池をつくり、石灯籠を置きました。この石灯籠は、震災で倒れて折れましたが、修理して、繁俊、登志夫とともに渋谷、成城、逗子、と移転しました。歌舞伎座新開場のとき、歌舞伎座ビル5階の庭園に寄託され、どなたにも偲んでもらうことができます。
「池はいわゆる汐入。低地なので海の干満につれて塩水がさしひきする。夏、日照りが続いて汐がやけてくると、鯉や鮒が水面に出てきて空気を吸い、小さなあぶくを立てた。いつか亀の子や蟹も住み着き、春先には蝦蟇がたくさん集まってきて、うるさいくらい鳴き立てた。」(登志夫著「黙阿弥」より)
この家に移って2年半で、次女島が34歳でなくなります。自分の本葬はするなと言って亡くなった何事にも質素な黙阿弥が、このときばかりは盛大に弔ったそうです。その3年後、黙阿弥が亡くなり、さらに10年後妻の琴女が亡くなります。この家では3人が亡くなり、大正12年の震災で焼失することになります。ここで生まれた繁俊の長男信雄は、震災のとき、この家から母たちと避難しますが、近くの小名木川で流され満1歳で亡くなります。この震災以後、一家は下町を離れ、渋谷に移ります。
この写真は、歌舞伎座ビル5階屋上庭園に寄託された灯籠と、つくばいの前で。2013年3月13日、まだ歌舞伎座新開場前ですが、開場手打ち式の現地打ち合わせのあとに寄りました。灯籠前の説明板の文章も登志夫が書いています。これが、生まれてからずっと一緒だった灯籠との最後の別れになりました。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)