繁俊の「逍遙、抱月、須磨子の悲劇」

2020年前半は、コロナウィルスのこと一色でした。大正期に世界中で流行したスペイン風邪がたびたび引き合いに出されましたが、この時に亡くなった著名人として名前が挙がるのが、島村抱月です。

この「逍遙、抱月、須磨子の悲劇」は、昭和41年5月の発行。繁俊が亡くなる1年前、満を持して完成した一冊です。帯には、「新劇創生期の大女優 松井須磨子と同じ坪内逍遥門下に学んだ著者が 約半世紀の沈黙を破ってつづる抱月・須磨子“恋愛悲劇”の真相 抱月の恋文や須磨子自殺までの苦悩など かずかずの新資料による決定版」とあります。


繁俊は、明治40年に早稲田の英文科に入学、42年9月、坪内逍遙の立ち上げた文芸協会に入ります。同じく第一期生だった松井須磨子とは信州が同郷の仲間という間柄でした。繁俊は、文芸協会の試演会など、何度か脇役としても舞台に立ちますが、44年9月、逍遙私邸で行われた抱月と中村吉蔵演出の「人形の家」の演出助手として2ヶ月懸命に稽古に立ち会いました。ノラ役は松井須磨子でした。下の写真は、文芸協会開所式の写真です。中央列右が繁俊、繁俊の左上が抱月。前列右から4人目が逍遙、3人おいて須磨子です。

繁俊はそのあと逍遙の推薦により、黙阿弥家に養子に入ることになり文芸協会から離れましたが、その後の文芸協会解散や、芸術座の立ち上げ、抱月の死、須磨子の後追い自殺、などについては、自身も同時期に直面した大事件でした。

繁俊は、抱月から須磨子にあてたラブレターや、抱月から逍遙への陳情書などを、初公開しました。あまりに赤裸々で人間らしく、抱月のイメージとかけはなれた内容の資料ですから、公開するまでに、繁俊の中で大変な心の葛藤があったことは、自身もそのように書いていますし、出版まで歳月を要したことでもわかります。

抱月の夫婦喧嘩の有様や、ラブレター、陳情書をはじめ、この本に書かれているすべては、そのへんのドラマよりずっと劇的で役者がそろっています。繁俊の著作権が切れたいま、ぜひ復刊していただき、読んでもらいたい1冊です。読み始めたら止まらないおもしろさです。須磨子を看病して自身が倒れた抱月、その抱月と引き裂かれるのがいやさに病院に行かせなかった須磨子。興行師としての才能もあったという抱月が、その後も長生きしていたら新劇の世界はいまどうなっていたことでしょう。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)