切抜帳12より①劇場プログラム寄稿  登志夫のベストセラー678万部?!

劇場の公演プログラムへの寄稿です。

昭和41年に国立劇場ができた時から亡くなるまで、自分が監修した月や黙阿弥ものの上演その他、一体何度登場したことか。そのうち数えてみようと思います。国立劇場も今年のさよなら公演で一度閉場。繁俊、登志夫ふたりとも、違う形で濃いおつき合いでした。黙阿弥の遺品もずいぶん寄贈していますから、今後も保存でお世話になります。

登志夫が執筆して以来ずっと使われていた歌舞伎鑑賞教室の月に配布される手引きの小冊子「歌舞伎」は、新開場後もそのまま継続でしょうか?そうだと嬉しいですが…。

この小冊子について、2002年1月の国立劇場のプログラムの鼎談「国立劇場三十五周年記念」で話しています。
この小冊子も、鑑賞教室の入場者数と同じく400万部、と話しています。関係者の方が調べてくださった話では、この鼎談の時までで400万、2007年までに528万、2022年までに約678万部くらい配られていたようです。登志夫は自分のベストセラーだとよく言っていました。もちろん原稿買取ですが!
こちらは昭和55年3月、『都鳥廓白浪』のプログラム。国立劇場には、歌舞伎座とは違って、通し上演を行うのが大事だとこのときも書いています。

こちらは同年の5月「團菊祭」の歌舞伎座。歌舞伎座はほぼ毎月歌舞伎を上演していますから、国立劇場よりもっとずっと登場回数は多いです。1年連載なども何度かしています。今も続く團菊祭、現在もこの月には團菊祭とはなんぞや、という内容の寄稿がたいてい掲載されていますが、登志夫のこの文章はいったいなぜそんなに九代目團十郎がすごかったのか、という素朴な疑問への先人からの答えが書いてあり興味深いです。

同年7月国立小劇場での前進座公演『切られお富」上演に寄せて。

同年10月歌舞伎座『十六夜清心』監修のことば。孝夫・玉三郎コンビでの上演で、ほぼ通しとのこと。

同年11月帝国劇場『王様と私』プログラム。現在の松本白鸚さんの王様。当時の染五郎さん、早稲田の出身ですからそのつながりもありました(以前このblogで、学生服の染五郎さん、北大路欣也さんと登志夫の一緒の写真をあげました)。白鸚さんはつい先日、最後の『ラ・マンチャの男』を演じられました。昨年の東京での最後の公演の時は拝見できましたが、素晴らしい舞台でした。白鸚さんは、力の抜け具合、自然さとユーモア、そして熱量のバランスが絶妙で、シアターナインスなど、現代劇も含め、何度も観たくなります。登志夫もよくそう言っていました。

翌1981年5月国立劇場『日月星享和政談(延命院日当)』上演時、監修のことば。黙阿弥作の『延命院日当』は、あまり上演される作品ではなく、しかもその通し上演、お客さんは入ったのでしょうか。

同年5月歌舞伎座、またまた「團菊祭」のプログラムへ寄稿。團菊祭は、五世菊五郎と黙阿弥との関係があり、黙阿弥ものの上演がほぼ毎回ありますので、登志夫の出番も多くなります。この月は、『髪結新三』が上演なので、それについての寄稿です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)