かえるの家④ 「カエルに注意!」

今日も登志夫のカエルたちを紹介。このユニークな鍋つかみはドイツ製、登志夫が日本文化の研究家のトーマス・ライムスさんからもらったものです。

この鍋つかみをくださったトーマスさんとのエピソードを「かんぽ資金、No.123 」(1988(昭和63)年8月号)に書いています。昭和63年5月、緑の美しいドイツをドライブ中、トーマスさんが急ブレーキをかけたのはなぜだったのでしょう?
トーマスさんは、カエル好きの登志夫のために、「カエル注意」の標識を見せてくれたのでした。カエルの大群とはどれくらいのものなのか、渡りきるまでにはどのくらいの時間がかかるのか、どんなカエルなのか興味は尽きません。昔カルガモが道をわたる姿をテレビでよく見ましたが…。

一枚目の写真の鍋つかみ、この旅行でトーマスさんがお土産に下さったもの。この鍋つかみのことを「私のコレクション」という座談会で紹介しています。(「共立女子大学文芸学部報第77号」平成4年10月)


「実際にお使いのものは?」と聞かれてこう答えています。

登志夫:「今日持ってきた鍋つかみはドイツのものです(実物を示す)。蛇のように見えますが、蛙です。足がある。口を開けると中にハエが書いてあってカエルが、このハエをペロっと食べるという具合になっています。実はこれ、まだ1度も使っていないんです。焦げちゃうといけませんから(笑)」

ここから先は、この座談会で話題にしているカエルをお見せしましょう。他の方は万年筆と古伊万里のコレクターで、面白いお話がたくさんありますが、カエルのところだけ抜粋します。
「特にご自慢のものは?」と聞かれて…。
登志夫:「このポルトガルの金細工の小さなブローチが、中では1番高いものでしょうか。手の先や目に赤と青の小さなルビーやサファイヤのようなものが付いているんです。いくらだったか覚えていませんけど、うちの女房には高かったぞと言っているんです。そのせいか、大事にしていますよ。」
登志夫:「もうひとつは、この間京都の太秦に中国人が三本足の蛙を売りにきましてね。後足が1本なんです。これにはいろいろいわれがありまして、非常にめでたいカエルらしいんです。舌の代わりに銭が付いていて、これがお金を呼び込むんだそうです。小一万しました。」(左側のカエルです)
「どういうものをお集めですか?」
登志夫:「もともと収集癖ってないんです。最初に買ったのは、奈良駅前で見つけた、小笹船に乗ってふて寝したような蛙の木彫りで、小さいものですけど結構いい値段しました。」
良子と結婚して4年目、学会で奈良に行った登志夫が、「あなたが昼寝しているのにそっくりなカエルがいたよ」と言って買ってきたのがこれ。横幅15センチの一刀彫りですが、絵に描いたり、お香道具に登場したり活躍しました。家にきてもう60年近く、ずっと鼻ちょうちんで昼寝をしています。
これはお香で使う聞香炉のふたです。この奈良のカエルの下絵を登志夫が描いて、金沢の蒔絵師の清瀬一光さんが作ってくれました。黒柿の木の木目を川の流れにみたてて、笹舟が川を流れていく趣向です。
こんな感じで使います。
ついでに同じ時に作ったカエルの他のふたをお見せします。蓮の葉の上で行く雲を見ているのでしょうか。これも登志夫の下絵です。
登志夫は折り紙でカエルを折るのが得意でした。これも登志夫の下絵で、折鶴ならぬ折カエル。
これは奈良のカエルのスケッチです。
この奈良のカエルのスケッチが思いもよらぬところにあって驚いたことを思い出しました。
1983(昭和58)年に随筆集「酒は道づれ」が出版されましたが、

井上ひさしさんの寄稿してくれた帯を外すと、登志夫が描いたカエルのスケッチが出てきます。ここまでは打ち合わせで分かっていたのですが、出来上がってきた本を手に取って、出版社の方が次にこのカバーを外すと、あっと驚きました。

カバーをはずした表紙にも、裏表紙にもこの奈良のカエルがいました!
この本を読んでくださった方でカバーを外さずそのまま本箱に入れてしまった方には全く気づかれなかったはずです。これは編集の方のサプライズプレゼントでした。

これが表紙。

こちらが裏表紙。

奥付にはカエルのハンコが押してあります!どこまでもカエルです。(笑)
さて、回り道しましたが、再度座談会に戻ります。
「蛙は何かのシンボルって事はありますか?」
登志夫:「カエルは非常に幸せなんじゃないでしょうか。貸した金がカエルとか旅行に行って無事カエルとか蛙信仰があると思うんです。歌舞伎役者なんて非常に縁起を担ぎますから、「お蛙様」と言って、布団を作ったりします。」
「集めるポリシーは?」
登志夫:「僕の場合、何か聞き込んで、わざわざ出かけていってと言う事は全くないわけです。なんとなく寄ってくる。いただくことも多いんです。」
「お宅に飾ってあるんですか、全部?」
登志夫:「せっかくだから棚を買ったんですよ、ガラス製で、電気のつくの。(笑) それでもやっぱり並べきれなくて、陳列替えをしたり…」
「愛好会のようなものは何かありますか?」
登志夫:「『蛙友の会』っていうのがあります。その会長さんが蛙博士と言われる人で、もともとはサンショウウオの生態の研究者なんですが、蛙も好きになって…。その方は本物のコレクターです。僕は入っていませんが、来てるのはすごいマニアばかりで驚きました。実物を飼っている人もいます。
それと、河鍋暁斎と言う幕末明治の大画家がいるんですが、この人が蛙好きで、自分の墓石まで蛙の形に作ったほどです。河鍋美術館というのがあって、蛙のコレクションも展示しています。」
こちらは暁斎の「美人観蛙戯図」(絵はがき)
暁斎の「見立て仁田四郎」 (絵はがき)
暁斎の2種類の切手
河鍋暁斎記念美術館の河鍋楠美館長と登志夫は、カエルの御縁でこの頃初めてお会いしました。黙阿弥と暁斎のひ孫同士です。黙阿弥と暁斎は親友ともいえる仲で、仕事も一緒にしていました。
そんなことで後に、それまで教科書に「鹿鳴館」として掲載されてきた絵が、実は黙阿弥の台本を宣伝用に描いた、暁斎の行灯(あんどん)絵だったいうことを、この2人のひ孫が発見して話題になりました。「鹿鳴館」は実は「パリのオペラ座」だったのです。
登志夫亡き後もお便りをくださり、励ましていただき感謝しています。


「ご自分で飼おうとは?」
登志夫:「思いません。世話しきれないから。小学生の時に飼っていた赤蛙を死なせてしまいまして、それ以来どうも実物を飼うというのは、、、。」
 
とは言え、飼っているわけではないのですが、成城の庭の小さな池にはガマの家族がいました。下の写真で、三女が見つめている先にガマがいます。夜、暗いところを歩いて、ペロっと足を舐められたことがあります。逗子に越してもトノサマガエルが池に来ましたし、冬眠中のカエルを掘り上げて、あわててまた土をかぶせたようなこともありました。カエルが死んでいると登志夫は必ず土に埋めて石をおき、お墓を作って子供たちに見せるのですが、遊ぶのに忙しい子供たちは逃げて行ってしまいます。とかくカエルには縁があるようです。
「今後のコレクションのご予定は?」
登志夫:「私は自然体ですから、特に今後どうしたいという事はありません。おやっというものがあれば買ってみたいというのはありますね。新種を探したいという。まぁ行き当たりばったりですが、、、。」
「今日は楽しいお話をどうもありがとうございました。」とこの対談はおしまいです。
後はいつものようにアットランダムに。
今日は小さなサイズのカエルたちをお目にかけましょう。
下の写真、左上のほうにオタマジャクシが2匹います。「蛙の子は蛙」とよく言われますが、本当は「蛙の子はおたまじゃくし」です。
2〜3ミリ位のちびさんもいます。
なが~くなりました。今日はこれ切り……。(良)


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)