切抜帳11より③ /ウィーン日本人学校の校歌を作る
1978年9月から翌年の3月まで、登志夫は小学4年と3年だった次女と三女を連れてウィーン大学に客員教授として、半年間講義に行きました。
こちらは、ウィーン滞在中に朝日新聞に掲載された記事です。この頃の新聞は文字が小さいだけあって文字数が多く、読みごたえがあります。朝日新聞、5月から500円値上げし、文字のサイズは大きくしたとか…。値段が上がるのに情報量は減る、そして夕刊がなくなる地域が増えるそうで、繁俊、登志夫、そして浩二がたくさんの原稿を書いてきた夕刊や文化欄はますます存在感がなくなっていくようです。
登志夫の切抜帳は、紙媒体が今の何倍も勢いがあった時代が長く、ページをめくっていると、そんなことを考えさせられます。
こちらは帰国後。日経新聞。前年に出版した「演劇概論」のこと、比較演劇学の意義についての問いに答えています。
こちらは、登志夫が娘たちが通ったウィーン日本人学校のために作った、校歌の詞です。ちょうどその当時、正式に小学校・中学校として開校したので、頼まれて引き受けました。最初は躊躇したものの、立岡校長の熱心なお気持ちに応え、「ほかの仕事は忘れられたとしても、この校歌はずっと残るだろう」と、どこかに書いたように、結果として、生涯忘れられない良い思い出になりました。あれから45年、今ではドイツ語に訳されたバージョンもあり、登志夫が後年この日本人学校を訪れた時には、3番をドイツ語で、生徒たちが歌って聞かせてくれたそうです。
こちらは開校式。小学生と中学生、そして先生方、関係者が集まった1枚です。
開校式で、校歌の作詞者として紹介された登志夫。作曲の藤原道從氏(右)も、娘さん2人がこの学校に通っていました。
ウィーンでの父娘三人の生活は半年だけでしたが、逗子に残った妻良子と長女、隣の家に住む母のみつと、たくさんの手紙、ハガキをやりとりしました。国際電話は高額で、なかなか長く話せなかった時代でした。事前に何月何日何時に電話する、と手紙で相談の上、楽しみにその時を待ったものでした。今なら簡単に顔を見て何時間も話せるのに。。
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