黙阿弥14歳、早熟な大江戸の若旦那③江戸の申し子
文化13(1816)年2月3日、芳三郎(黙阿弥)は花のお江戸の真ん中で初声をあげました。
家族は6人、身上(しんしょう)を傾けるほどの通人であった祖父は5歳、祖母は9歳まで、前述の日本橋式部小路の商家で一緒に過ごしました。
父は36才、祖父が傾けた家産を立て直し盛り返した、商売ひとすじ質素堅固の人でしたが、前の結婚で男の子をなくしているので、やはり今度こそはと注意深く育てたでしょう。
母まちは武家階級の人で、仏様のように優しい心立ての31歳、当時としてはおそい結婚出産で、子供をたいせつに思うあまりちよっと甘かったかもしれません。
前妻の残した疳(かん)のつよいしっかり者の6才上の姉、清(きよ)がこの弟をかわいがったことは大きくなってからの話でも知られます。
子供の頃の芳三郎についての、糸女(黙阿弥の長女)からの数少ない繁俊の聞き書きに「目の中へなすり込むように可愛がっていた母と姉」と言う記述があります。目の中に入れても痛くないというのはよく聞きますが、目の中へなすりこむと言う記述がとても珍しく、可愛いがりかたの程度のほどがわかります。
もう一つ確かな幼児の追憶として伝えられているのは、芳三郎が生まれつきの弱虫で、喧嘩などをしたことがなく、友達にいじめられて泣いて帰ったことが度々あったと言う事です。
跡取り息子の芳三郎が家族に大事に育てられたのがよくわかります。
時は文化文政の大江戸町人文化の爛熟期。時の将軍は放漫経済で歴史に名を残す十一代家斉。彼には53人の子がいましたが、芳三郎出生の翌年、40何番目かの子が生まれています。
将軍の贅沢三昧の経費だけでも財政切迫の幕府は、金銀の含有量を減らした通貨を世の中に大量に放出しました。御家人や旗本は町人からの借金は踏み倒してよいお触れ(棄捐令)を出したり、賄賂が幅をきかす政治をしました。また、江戸の8割がたの土地を所有している大名、旗本、御家人たちの贅沢な消費行動が、江戸の経済を支えたという見方もあります。そしてこの放漫経済や貨幣が大量に出まわったことが、皮肉にもインフレの世の中を作り出し、貨幣経済の恩恵を受ける江戸の大商人や、都市生活者を裕福にしたとも考えられます。
下の絵は、大奥の家斉(国立国会図書館蔵)。世継ぎを絶やさないためとは言え、男の理想の桃源郷だったでしょう……か。たら親父(子だくさんの鱈)のあだ名もありました。
江戸の人口は百万人を超え、世界一の都となり、日本橋は五街道、海運、水路網、上水道の中心で、人や物や文化が入ってきます。またあちこちに旅することもでき、娯楽にお金を使うことができるようになった庶民の生活は楽しみに溢れていました。
農民は、貨幣経済の恩恵を受けられず、苦しい生活を送っていましたので、ますます江戸に人が流入します。不況下のインフレだったとも言われます。
繁俊は著書「河竹黙阿弥」の中で「特に日本橋(魚河岸)と並べて、三千両と称された吉原と芝居とは、江戸人の見出した歓楽境の最たるものであった。(朝の魚河岸、昼の芝居町、夜の吉原では1日それぞれ千両ずつ大金が動くと言われた)
芝居がいかに江戸を支配したかは次に譲るとしても、紅(くれない)の物語の浮動せる吉原五丁町、その他の花街のいかに繁盛したことであろうよ。上下蕩然として遊楽に沈湎(沈み溺れる)したのは、この頃をもって頂点とする。」と述べています。
思えば芳三郎は、時は江戸文化爛熟の最中、ところも人が渦巻く江戸日本橋、江戸の申し子とでも言うのか、遊楽に沈湎するのは必定だったのでしょうか。
芳三郎の家からは日本橋を渡ってすぐ右折してまっすぐ行くと人形町の芝居町で、堺町、葺屋町(ふきやちょう)には表通りに面して中村座と市村座が肩を並べています。古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座が軒を連ね、芝居茶屋をはじめ役者や芝居関係者の住居がひしめいていたそうです。
また、家を出て、左の銀座の方へ行けば木挽町では森田座、河原崎座が歌舞伎の興行を行っていました。
下の錦絵は、初代歌川広重「東都繁榮の図(中村座)」(国会図書館蔵)の錦絵で、小屋の中からは役者の声や、下座音楽やツケ打ちの音などが漏れ聞こえますし、木戸口では出演役者の声色を聞かせていたり、呼び込みの声など、幟(のぼり)のはためきの音とともに賑やかに聞こえてくるようです。
これは、芝居小屋の内部を描いたその頃の江戸みやげ。直径10.5センチほどの盃(さかづき)で、朱塗りの地に金蒔絵で大変細かく書かれた密画です。裏に「東都里朝」と書かれています。地方から見に来た人々がお土産に買っていったようです。
曽我の芝居らしく、花道に朝比奈が座って、多分ツラネを述べているところでしょう。土間やウズラ(舞台の左右の席)の老若男女の風俗や表情が面白く、これは二世市川左団次が繁俊にくださったもので、登志夫が昭和52(1977)年に、家の古い荷物の中から見つけました。
同じ図柄ですが、これは二代目歌川豊国が安政5年市村座上演の「暫」を描いた錦絵、猿若町時代の市村座です。
余談ですが、明治30年生まれの繁俊の妻みつは黙阿弥家の親戚筋で日本橋両替町の大店で育ちました。みつが小さいときの芝居見物の様子を良子に話してくれたことがあります。その頃は(良子は劇場の名前は覚えていませんが)まだ平土間も桟敷も、芝居茶屋も残っていたそうです。
まず夜の明けないうちに提灯を持ち小僧さん達に荷物を持たせて、芝居茶屋へ出かけます。風呂敷包の中には、浴衣や午後の部に着替える振袖などが入っています。
このときの気持ちは、スキップしたい位で、ワクワク、ドキドキ、これから起こる1日を思い描いて、何とも言えないものだったそうです。普段は叱られているばかりの両親と一緒に歩けるだけでも嬉しくて、晴れの日だったそうです。
茶屋の主人等に出迎えられて座敷に落ち着くと、まず御膳が出て一服します。そして桟敷に案内されてタバコ盆やお茶が届けられます。平土間には縄の先に火をつけた火縄売り(タバコに火をつける)や「かべす」(菓子、弁当、寿司)を枡席に運ぶ人たちも通ります。観客は食べたりしゃべったりしながら結構気楽に芝居を見ます。1日がかりなのですから。
みつの知り合いの「にんべん」のお嬢さんや、近所の大店の人々の顔も見えます。お昼には茶屋に帰って浴衣に着替えて、御膳を食べたり横になったりするそうです。
午後の部には違う晴れ着に着替えて席に入ります。皆お嬢さんたちの着物にまず目がいったそうです。途中、果物やお菓子が届けられ、芝居は夕方には終わったようです。
芝居が終わると、観客は一斉に立ち上がって出口に向かいますが、日本髪にはとっておきの櫛、簪(かんざし)、笄(こうがい)などを挿していたので、さっと手ぬぐいをかぶったそうです。この時を狙ってスリが横行したそうです。また帯には風呂敷をかけて汚されるのを防いだそうです。
このような家族で1日を過ごすぜいたくな芝居見物は大変高額なものだったようです。
幼い芳三郎の生活の中で、まだ祖父母の生きていた頃から、みつが話したような歌舞伎見物は必ずしていたことでしょう。料理茶屋の凝った食事や、うす暗い芝居小屋の中で見たきらめくような、美しく、妖艶で、また恐ろしい様々な舞台の様子が小さな脳裏に焼きついたことだと思います。
そして誰ひとり、この大店のひ弱な坊やが後に歌舞伎を背負って立つ作者になるとは考えもしなかったことでしょう。
今日はこれ切り……(良)
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