登志夫と繁俊の戦前、昭和元年から13年頃

昭和13年12月、熱海錦ヶ浦にて。
前のブログで、登志夫の小学生の頃の戦時教育を、日記や教科書、愛読書、玩具、雑誌などで見てきました。虚弱とは聞いていましたが、日記を見ると本当に休みの多い小学生でした。学校での修身や国史で読む、忠君愛国の物語も興味深く読んでいますが、病床で世界の童話や、繁俊も書いていた子供向けのお話の本、先生に勧められた学校図書室の本等々、よく読んだり、聞いたりしています。大好きな漫画ののらくろが、軍人になってしまっても、体が弱くてとてもついていけず、将来将軍になろうと思えなかったようです。虚弱で死に向かい合うほどの状況でしたが、いろいろな価値観で書かれている本を読む事が大事なことだとしらされました。山本有三の「心に太陽を持て」の詩と、同書の物語に戦中戦後事あるごとに励まされたことは、大きな救いだったでしょう。
お国のために生きるという、修身の中身は1年生の時から叩き込まれていますから、一生そこからはずれる事はなかったでしょう。
徴兵されれば行っていたと言い、上級生たちが戦死していることが生涯心の負い目になっているとも言っていました。
それは公に書いたりはしませんでしたが、戦争を生き残った人々に共通の、人に言えない負い目でしょう。理不尽なことですが。
戦後、いろいろな国へ日本の文化を伝える講義や講演など、他の国への好奇心もありますが、いつもお国のためと言いながら行ったものです。冗談めかして言っていましたが、本心だったと思います。

この頃の登志夫の周りの世界を見てみましょう。
父繁俊は関東大震災で消失するまでの帝国劇場に勤めていました。そこは、歌舞伎も新劇も舞台美術も音楽も文学者も研究者も当時の最先端を行く人々のるつぼで、早稲田の出身者も多く、繁俊にとって1番やりたかったことで、やりがいもあり、また友好関係も広くなり、人生で1番楽しかった時だったと思えます。
が、心ならずも養母の意向で帝国劇場を辞め、早稲田の人となり、昭和4年、坪内逍遙を記念する演劇博物館建設に命がけで取りくみ、昭和4年完成させました。そして演劇研究と坪内逍遙を助けて、児童劇の普及、歌舞伎の演出やNHKでの日本演劇の歴史の講義などを続けているうちに昭和10年坪内逍遙が亡くなります。
登志夫が6年生の昭和11年、226事件があったり、世の中は騒然としていましたが、まだ文化的な活動もありました。繁俊も加わった早稲田演劇協会などが国立劇場建設の趣意書を作り、国会議員も議論に加わったりして、翌12年6月には国会で超党派の賛成で認められました。
喜んだのもつかの間、翌7月に盧溝橋で日中両軍が衝突して日中戦争が始まってしまい、文化的な事業などは中断されて、世を上げて戦時体制になってしまいました。(結局国立劇場が完成したのは戦後の昭和41年、30年後でした。)
9月には親友の久保田万太郎が岸田国士等と文学座を結成しました。早稲田出身で新劇俳優の友田恭介も加わりましたが、その発会式の日が友田にとっては軍地へ赴く壮行会になってしまいました。
この頃の繁俊への手紙の1部です。
この写真の中の西条八十も繁俊の友人で、(これより4〜5年前か)繁俊にたのんで、熱海に中山晋平と行ってお正月を越した、ありがとうという手紙が残っています。ハ十はこの日中戦争(支那事変) に従軍しました。現地で書いた詩集「黄菊の館」(昭和19年発刊)で、装丁と見開きの絵は藤田嗣治です。八十からの謹呈本です。
呉淞クリークの畔に立ちて
(略)
三々伍々、堤に横たわる支那兵の屍、
藍衣裂け、すでに硬化して、瞠(みひら)ける瞳大空を仰げるごとし、
叢(くさむら)に軍隊手帳の落ちいるを見る、
ひらけばその名は「揚臣餘」、
あわれ、汝が父は、母は、
いまいづこにありて、
帰らざる若き愛兒を待てりや、

クリークのよどみにステッキを刺しつ試みれば、
どろ々として人髪絡み、
水面(みずも)にきらきらと死膩(しじ)は漂う、

かしこのあたり、友田恭介伍長が
鐵舟を繰りし最後の場所と案内人は語る、
防水布にパンヤをつめし渡河用のカポック、
ごろごろと遠く近く散乱せり。

若く殪れし、新劇の熒星(けいせい)、友田恭介よ、
君を追慕する毎に、なにゆえか、吾には
ダンセニイの「宿屋の一夜」の舞台面、
椅子に新聞を読みいたる君が姿の目に浮かぶなり、
あの頃は、君いまだ少年なりし、
主人公トツフの殺人鬼を待ち受けしごとく
いたましき最期の瞬時、君の瞳の怪しく輝きしや否や。


いたずらに血潮を吸いて
肥えふとりたる江南の赭土(しゃど) よ、
来(こ)ん年はいかなる悲しき野花をこの江畔に咲かしめんとする?
さわれ、それもよし、
勇ましき護国の英霊は
今すでにかの青空に昇りて、
小さき、殺戮の人間世界を
愛りんの目をもて眺めつつあるなれば。
(略)

友田恭介が文学座に入団して、すぐ出征したのがこの上海郊外のウースンクリークで、10月6日に戦死してしまったのです。
文学や演劇で大正の夢を共有している人々の上にも、戦争が否応なく迫ってきて、友田の戦死の詩を八十が書く巡り合わせになってしまったのです。


繁俊への便りの写真の右から2番目)
軍事郵便、検閲済み
仏印派遣岡1601部隊10 1-291
松原晩香

松原さんは早稲田の逍遙門下で、爪哇(ジャワ)日報社のスラバヤ支局を任された方です。「西方遍路」(昭和10年刊)  「南蛮通交志」(昭和17年刊)  「南方の芝居と音楽」(昭和18年刊)などの大変貴重な著書があります。
昭和14年から20年までの間の便りと思います。
「これから東印度に赴くが、大東亜芸能研究にぜひ参加したい、資料を収集いたします。」と、とても元気な近況報告と、温かいタッチの安南娘が書かれています。
戦後の消息がつかめません。
昭和13年には、新劇の、岡田嘉子と杉本良吉が樺太国境を越えてソ連に亡命しています。杉本は翌14年に処刑されてしまったそうです。岡田は抱月、中村吉蔵、山田隆弥などに縁があり、繁俊の勤めていた帝劇でも演じています。
戦後の昭和40年5月7日、登志夫は仕事で滞在中のモスクワのホテルで、日本からの歌劇団がらみで岡田さんと夫の滝口新太郎さんにお会いしています。(2021、10、16日ブログ)

新しい文化を担って活躍していた人々の上にも、様々な嵐が吹き荒れていきます。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)