ベルリン、パリ、ダブリンからの手紙

登志夫から良子へ、10月3日の葉書です。
「30日無事ベルリン着、すぐ記者会見その他、10月1日は舞台げいこ、レセプション、2日は初日、 またレセプションで、夜は初日祝いで少々飲むといった調子で、芝居の記録以外はペンを持つ間もなし。しかし、まずは元気。そうそう、1日には夜、狂言を見て、あと野村一家とシナメシやで 会食。狂言は400人入りのホールだが、大成功と見た。歌舞伎の初日も、米ソとは反応の仕方が全く違うが、成功である事は同じ。やはり俊寛が受けています。ユネスコ関係のこともはさまっ て、忙しい。」
ベルリンの劇場の写真です。
10月15日のパリからの手紙です。
「今日は結婚1周年ですね。そちらの写真ありがとう。奈都子も大変元気そうで嬉しい。もう少し2人きりだが頑張ってください。ベルリンを立つ日一応ベルリンでの歌舞伎についての短信を、朝日の宮下さん宛に送った。これ はしかも注文のままではないので載るか載らないかはわからない。ベルリンオペラ座についての調査も森さん宛に送った。ベルリンは忙しかった。14日にはユネスコでのレクチャーをともかく済ませた。しかも先方の手落ちで、予定の映画は、フィルムはちゃんと日本側から届いているのに、映写技師が時間になっても来ず、梅幸、九朗右衛門を相手にどうやらお茶を濁したものの、2度3度その場でペースを狂わせられ、とうとうおしま いまで映画はダメ。こんなひどい話をさせられたのは初めてだ。 今日は今日で舞台げいこに道成寺の鐘が早く降りすぎ、危うく梅幸の頭に触れるところ。カツラが半分鐘の縁にはねられる始末。それでも先方は言い訳ばかり。ドイツでも初日に鐘が早く降りすぎたが、その責任を取り、かなりの年配で高給取りの主任は即日職を奪われ、10年間平の道具方に格下げされた。むしろ日本側から穏便な処置をお願いした位だ。何も私は全てが全てとは言わないがフランス人の無責任、いい加減、言い訳、責任転嫁にはつくづく呆れる。 もっとも野菜果物はベルリンとは比べ物にならないほど良い。骨董品の類も良い。今日ちょっと 暇を見つけコンパクト1つ買ったよ。石と七宝の綾がいいと思う。ベルリンでムーンストーンのリ ングも買ってある。他の皆にも何かしら買った。ただし何分プア・プロフェッサー、大したものはないがね。ここは市川ドクターと同室。先生、まだ帰ってこない。留守中患者が2人ほどきた。いろいろおかしな社会です。ではまた、奈都子によろしく。」
これは、その時のお土産のコンパクトとムーンストーンです。上がムーンストーン(ベルリン)、右が七宝コンパクト(パリ)、左が金線コンパクト(ポルトガル)。

10月17日パリからの絵はがきです。
「一昨日歌舞伎初日、格式のうるさい劇場で、生まれて初めて黒の蝶ネクタイと言う物をつけた。 予想外に軽快な反応。つまりドイツの客の、重い、理屈で考えていく反応と反対に、視覚的、瞬間的な反応が盛んで、例えば俊寛の遠見の船のようなものにもよく笑うには驚くくらいだった。終演後は岸信介、大使の外、向こうからは外相夫人など、岸惠子までやってきて、ホワイエでレセプション。ここの成功は私には予想以上であったと思う。今日はカエルの料理を食べた。(このホ テルにいます。もと駅でした)」

「訪欧歌舞伎」のなかで、市川ドクターの、このホテルについての記述があります。
「パリへ着くとまず昔の汽車の停車場を改造したホテル・パレ・ドルセイの広いのと、古い設備に驚いてしまっ た。班長が各部屋を回ると、1時間では回りきれない位広いホテルの、あちこちに散らばってしまった。加うるにフランス人の個人主義と中華思想がドイツ人の親切になれた身には冷たく感じた。また2時から7時まではフランスのレストランは休むので、昼食にありつけないことが再三あるのには困った。おまけにホテルがセーヌ川河畔にあって、周囲は飲食店のない寂しいところなので、12時の終演後はホテルに帰ってくるともうどこへも出かけるわけにはいかなかった。これらの悪条件も重なってパリの後半は治療を希望する人が増加して、10月23日は最高14人の要治療者が出た。患者数を比較してみるとベルリン74人パリ112人と50%以上も増加している。」 
ホテルが人の健康にこんなに影響があるのですね。登志夫も3食たべられず空腹を抱えたことがありました。

10月18日の手紙には、姉の2度目の手紙での、父繁俊の肺がんの詳しい状況を書いて、「父母を見送るのは、子の宿命であり義務であって、不可避のことです。今はその義務を最も真心を込めて果たすことに全力を尽くすべく、いろいろ考えています。あなたには重ね重ね心配や悲しみをかけてすまないと思う。私が帰るまで知らないことにしておいてください。」
とあります。

この日登志夫に届いた良子からの手紙。前の手紙で繁俊の癌を知って、
「実はお父さん(繁俊)は相当弱っておいででした。風邪の後、胃の具合が良くない様子でしたが、私に、登志夫には具合が悪いなどとは書かないでくれとおっ しゃったのです。「遠く離れていると必要以上に心配でしょうから私も書くまいと思っていたのです」と申し上げました。それであなたには、はっきりお父さんの病気の事は書かずに、あまり 良くは無いと言う程度に書いておいたのですが、その時が9月初めです。お父さんとお母さんと私 で、あなたには黙っていましょうと言うことにしたのです。深川の父母も非常に心配して、築地の新鮮な魚を届けたりしてくれていました。ガンの知らせの手紙を読んで、私たちの心配していたことが事実となってしまって、ぼう然としてしまいました。せめて国立劇場が開場するまではと私も同じことを考えました。まだまだなさりたいことだらけのお父さんなのに。」

繁俊から登志夫への手紙 。
「秋の色が濃くなり、柿が色づきお母さんはやきもきしている。これがお便りの最後になるのか もしれない、一切は健康第一いや人ごとではないがね。 富士山が逆光線でよく見えます。月は枯れた松の枝にかかっている、枯れた松もちょっといいも のです。枯れ木も山の賑わいかな。雑用を片付けましたから例のノンフィクションにかかりま しょう、材料も大半読み終わった、抱月の嘆願書は君にも手分けして書き写してももらったことがわかりました。さぁどうかけるかな、まぁ随筆風に楽に描きましょう、酒井と言う須磨子を手籠めにした人物も、園田に聞き合わせたら一昨年死んだそうです。もっとも88歳位だったでしょうね。ひどい奴だ。」 
常々「さぁとなったら書く」と言っていた、繁俊の青春真っ只中に起こった、逍遥と抱月と須磨子の事件をもう書かねば、と決心したのでした。繁俊自身、肺がんとはわからずも、のっぴきならない病であることを感じていたはずです。 

10月21日の絵はがきです。
ベルサイユ宮の中にあるオペラ劇場です。
「秋深く、庭も満目の紅葉で、きれいなことでしょう。
こちら元気。 昨夕は常陸宮ご夫婦も臨場、ジャン・ルイ・バロオ夫妻はじめ、大使その他で満員御礼の盛況、勘三郎大はりきりで、今度初めて気の入った師直を見せた。で、結果的には大成功。」
写真は、パリ、オデオン座の歌舞伎公演。立派な花道も。
10月24日の絵はがきです。
「今日はパリの千秋楽。一行は明後日リスボンへ立つが、私は飛行機の関係その他で、一足先に明日行きます。」
こちらは登志夫の写したリスボンの写真。 

10月26日のリスボンからの絵はがきです。
至急の知らせで
「10月31日リスボンからパリ、同日パリ発
11月1日5時55分羽田着。ただ、リスボンからパリがアフリカから来る便なので、万一パリで乗り継ぎに遅れた場合は 1日遅れるでしょう、その時はパリから電報を打ちます。」 LINEがつながる現在では考えられない不自由さです。

良子と再婚して半年後、ユネスコの研究員として招かれ、5月1日に出発し、10月の歌舞伎のヨーロッパ公演に合流し、11月1日に帰国。ちょうど半年間の長い旅でした。新婚でしたので、お土産はいらないから、手紙を毎日書いてと言う新妻の願いに、真面目に何十通もの手紙を書きました。
重い荷物を片手にさげての一人旅で、尿道結石を患ったり、胃がんの疑いを持ったり、役所仕事に翻弄され、体力神経を消耗したり、父の肺がんの知らせを受けたり。日記に、今度の旅は公私とも多難だったと書いています。
けれど、各都市で80本ものお芝居を見ることができたのは比較演劇学を論じる上でも財産になりました。父繁俊が若い時から関わってきた日本初の国立劇場が建設中で、そのために文化省から依頼された、各国の劇場の運営方式等の調査もでき、歌舞伎公演の文芸顧問の仕事やアンケートを取ったりと大きな収穫もありました。また土地の人々の交流は、どこでもあつい親切を受け、後々に続く素晴らしい出会いもありました。40歳の若さで乗り切り、ともかく無事帰国しました。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)