雑誌「演劇界」と登志夫

先日、「演劇界」がついに休刊するというニュースが発表されました。もう長いこと危ない危ないと囁かれながらも、小学館傘下となって持ち直すかと期待したものの、それから十数年、「演芸画報」の頃から百年以上の歴史を閉じるということです。「ぴあ」「シアターガイド」など、演劇を扱っていた紙媒体はどんどんなくなっても「演劇界」は頑張っていたのに。最近ではコロナがはじまった頃、全歌舞伎俳優のコメントを掲載して重版になったり、最近は「芸談を読もう」というとても力の入った特集を組むなど、並々ならぬ編集部の努力を感じていました。

歌舞伎俳優も休刊にあたって色々と惜しむコメントを出していますが、演劇界の歴史は、俳優との悶着の歴史でもあったのではないかと思います。写真の裏焼き、名前の誤植での回収や刷り直し、気に入らない写真を掲載したといって呼び出し、掲載前に写真を確認させるようにとか、気に入らなければ再撮影、または掲載不許可…。そんな噂を聞いたことがありました。手間と費用が嵩み、力を入れたい記事の充実に人員を割けなくなる…。そこにきて、紙媒体を定期購読する世代がいなくなっていく。大切なものに気づくのは、それを失ってからというのは何事においても同じですね。

登志夫は連載や、巻頭随筆を書いて、それを何度か単行本にまとめてもらったりもしていました。2004年1月号から2007年5月号までの6年半の連載は「背中の背中」という本になりましたが、この記事はその最後の一回分です。小学館の傘下になる前、休刊になる時の文章です。


「本誌『演劇界』はこの2007年5月号をもってちょっと一息、8月には前進の『演芸画報』から百周年を記念して“リニューアル創刊”されるという。百年続く雑誌は世界でも、そう多くないのではないか。しかもいま装いを改めて、新しい世紀を迎えるー。まず心から慶祝と期待の意を捧げよう。

 黙阿弥の家に生れ、父も歌舞伎にかかわっていたから、『演芸画報』には幼少のころから親しんだ。毎号くるのが楽しみで、まず写真を隈なく見る。昭和前期で、大御所五代目歌右衛門をはじめ、羽・幸・菊・吉……と名優ぞろいの黄金時代。病身のため舞台実見は九歳からと遅かったが、私の中の歌舞伎はまず『画報』ではじまっているのだ。

 その創刊が1907(明治40)年一月。43(昭和18)年、戦局悲運に傾いて、情報局命令により演劇雑誌六種は強制統合、『演劇界』と『日本演劇』の二誌となる。『画報』の遺伝子を受けついだ『演劇界』は、終戦の年の45年2月に空襲下で休刊するが、戦いすんだ10月には早くも復刊している。

 復刊した本誌に、私が初めて寄稿したのは52(昭和27)年5月の、増刊『河竹黙阿弥』だった。黙阿弥歿後六十年記念号で、編集長の利倉幸一さんに頼まれるまま、『黙阿弥伝』を書いた。学会誌の論文は別として、こうした一般誌に三十枚の執筆は初めてだった。曾祖父の小伝とはいえ、学生あがりの二十七歳の若造に書かせてくれた、亡き利倉さんの好意は忘れていない。

 講和条約発行直後の窮乏時代で、本文はワラ半紙。長谷川伸、渥美清太郎、三宅周太郎、安藤鶴夫、戸板康二から、私より一つ若かった大木豊や編集・構成に携わっていた有吉佐和子まで、私以外の名だたる執筆者はことごとく故人となった。諸行無常である。

 そう、いらい五十五年。本誌の歴史の半分以上の年月を、書き続けてきたことになる。歴代の社長や編集のみなさん、ありがとう。この間に三回の巻頭随筆連載も含めて、いまかぞえてみたら長短百八十二項目。この連載稿もあっという間に七年目で七十七回、偶然にも「喜(七を三つ書く字)」の字になっていた。

 さて新『演劇界』は百年の歴史を踏まえて、いかなる登場ぶりを見せてくれるか。若く新しい顔触れによる新作歌舞伎の開幕を、かたずをのんで待つ気分だ。そもそも歌舞伎自体、かぶき(傾奇)から歌舞妓、歌舞伎、カブキ、KABUKIといった表記の多様化にもみるように、出雲の阿国いらい、時代と共に変貌新生してきた。それを対象とする本誌が新生し若返るのは、ごく自然なことだろう。

 もちろん歌舞伎がどう新生しても、伝統様式の本質を見失っては元も子もないと同様、本誌にとっても『画報』いらいの遺伝子の核は、失われてはなるまい。それは写真と記事による“記録”の部分の堅持ということだ。百年後にも、今年今月の舞台が蘇ってきますようにー。そこに抜かりのあろうはずはないが、そのうえであっと驚く新鮮なアイディアを盛りこんで、老若男女一人でも多く歌舞伎ファンを増やし読者をひろげ、歌舞伎の隆盛に寄与してくださるようにと期待しつつ、華々しき新創刊を待つ。」

このあと、リニューアル後も登志夫の連載は再開し、亡くなるまで続き、長い執筆人生最後に寄せた文章も、演劇界へのものでした。これは2016年出版の「かぶき曼陀羅」にまとめられています。繁俊から二代にわたる長い長いご縁でした(そういえば、繁俊も亡くなった年、演劇界に「苔水園夜話」を連載していました)。

この時点で182項目、この後まだ6年連載したわけですから、もしかすると演劇界史上、最多寄稿のトップを争うのではないでしょうか。



河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)