訪欧歌舞伎の手帳⑦パリ、リスボン

10月12日にパリへ着いた一行。この写真はパリだかリスボンだかわかりませんが、レセプションや歓迎会の時、鏡に映った登志夫、十七世勘三郎さん、市川医師と撮影者の藤浪さんです。

こちらはどこか観光最中の勘三郎さんと藤浪さんと登志夫。

パリについて3日目は最初の結婚記念日でした。「高いdinnerでひとり祝杯」、とか。この日のリハーサルでは、「道成寺」の鐘の下りるタイミングが悪く、演じる梅幸さんに身の危険があったというアクシデントがありました。ドイツでも同じ場面で危ないことがありましたが、ドイツでは現地の担当者はすぐさまかなり厳しい処罰をされることになりました。歌舞伎独特のタイミングの難しさを痛感させられる出来事だったようで、このことについて梅幸さんが「鐘に恨み、とはこのことですね」と言ったエピソードとともに、登志夫はよく書いたり話したりしていました。手帳にも書いてあるように、パリでは言い訳ばかりされ、登志夫は「卑劣な人種である」と感じていました。

15日は朝食の折、梅幸さんから十五代目羽左衛門の話を聞いたことが記されています。パリ公演、夜は初日、夜はホテルで飲み、翌日は珍しくひどい二日酔で市川医師に注射してもらい、飲み薬も服用するほどでした。


19日は休演日で、藤浪氏とベルサイユへ出かけ、夜はレセプション、団長の岸信介氏、北大路欣也さん、中村賀津雄さんらも参会。

パリでの歌舞伎の評としてメモしているのは、

「セリフが奇異である。オペラでもなくrealでもない。stylizedの内容の相異。動かない時間が大切だということ。」

他の歌舞伎評として

「白塗りと赤っ面のこと。長袴がおかしい。膝で歩くようだ。さぞ衣裳がいたむだろう。」なんていうことを書いてあります。ほかには、「やはり全体的に梅幸が好評らしい」、「勘三郎の気ままなムラな芝居」などというメモもありました。

一行は25日にパリからポルトガルのリスボンへ。写真はリスボンでの登志夫。


27日は、歌舞伎を演を行うサン・ルイズ劇場へ下見に、楽屋のお湯が出ないことを申し入れ、「今夜突貫工事でお湯を出す」ようにするという話をつけたと、堀内事務局長の記録にも記されています。

28日は舞台稽古。急に首相が来たことが書いてあります。そして湯が出るようになったことも。

そして、初日。もともと夜9時45分の開演が、大統領かんげきのため遅れ10時からに。終演が午前1時過ぎ。この日はそのあとナイトクラブへ行き、朝6時に戻ったと書いてあります。

ユネスコ研究員・訪欧歌舞伎の手帳は、このあと30日で終っています。堀内事務局長の10月31日の記録によると、「本日にて早くも千秋楽。河竹氏は所用のため北極回りで一足先に帰国す」とあります。一行は11月1日にリスボンを発ち、ニューヨークへ、翌日ショッピングや観光、リンカーンセンターの稽古を見学するなどし、3日に最後の宿泊地サンフランシスコへ。そして翌日サンフランシスコを発ち、ハワイを経由し、5日の夜羽田へ。団員は40日間。登志夫は半年…。長く困難の多い旅となりました。

帰国後にまとめたこの冊子には、公演や、一行の行動の記録が、まだ興奮冷めやらぬ感じで詳細に書かれています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)