六寸の鏡餅 繁俊著「牛歩七十年」より

黙阿弥の家ではお正月はどんなふうにしていたのでしょう。繁俊が書いた震災前の、鏡餅の習慣のおはなしです。
「わたくしがおぼえてからも、まだ黙阿弥のウチでは、正月に飾る六寸の鏡餅のやりとりがのこっていた。だが、大正十二年九月一日の関東大震災後、すべてそうした旧慣は、すくなくも東京では地を払ってしまったらしい。歳暮と中元の贈答はまたその後もり返したが、六寸供えの贈答は、わたくしの知る限りではなくなったと思う。市川宗家、団十郎の家では、親戚や門弟から供える六寸の鏡餅が、座敷に数段に並べられ、その写真を見たことがある。下に半紙をしき、うらじろと、ゆずり葉とを置いて、その上に、同じ形のお供えをずらりと並べたところは、壮観といってもよい初春風景だと思われた。
黙阿弥が隠棲してからも、直門の十名ばかりと、劇場関係で親類仲になっていた花柳寿輔の家とは、鏡餅の贈答があった。暮れの二十八日の餅つきになると花柳の家元から使いがきて、四角の箱にお供えを納めて届けてくる。黙阿弥の家からも同様にして届ける。門弟のほうは、形が揃わないといけないというので、門弟総代が来て、家で餅をつかせるときに一緒にあつらえてこしらえた。
六畳の間の鴨居に一枚の板をわたして、それに並べる。その板も何十年と使い古した板に相違ないが、三カ所で鉄でとめるようになっていた。何しろ六寸備えが十いくつ載ると、相当な目方になるので、それに耐えられるようにつくられていた。
餅つきの日には、門弟総代が羽織、袴に威容をととのえて祝儀にくる。そうして半紙の半分をペロンとさげ、うらじろとゆずり葉とをしいてお供えをがざったところを見届けて帰るのであった。年寄りは鏡餅とかお供えとか呼ばないで「おすわり」と呼んでいた。
十一日は、今でも鏡開きとか蔵開きとかいって、鏡餅を開き、こわして雑煮にして祝う。それまでは棚の鏡餅もそのまま飾っておくわけである。だから十日の晩に、うすべりを持ち出して、六寸供えを棚からおろし、小さな出刃でカワを剥がすのである。カワをはがしたシンのところを、普通の餅のように切って、十一日の朝お雑煮にする。おしるこにするところも多かったそうだが、私どもでは雑煮だった。お供えは、普通の餅よりもつき方が少ないから、パクパクしていておいしいといって、年寄りは大好きだった。
さてまた、お供えをはがしたカワであるが、これはカチカチに固くなっているし、ちょっと食べるわけにはいかない。年寄りはそれを丹念に干しあげて、小さな石を台にして金槌で割って小さくする。そうして十分に干しあげたのを、お茶の缶のあいたのに入れてタナの上などにしまっておく。それがいくつもたまっているので、これは何年のだとわかるように、小さな紙に書いて貼り付けておいた。
そのくだいたお供えのカワは、春秋のお彼岸に油で揚げて、カキモチにするのである。お供えの古いほどかれていて、軽い味になるので、その古いのが年寄りの自慢であった。
これもほとんどなくなってきたが、江戸の下町方面にはお彼岸の配り物というものがあった。おハギ、精進揚げ、ゴモクといったものの贈答である。そのときに、ゴマ油で揚げたお供えのカワのカキモチを配ることになっていた。
そのお供えの古いカンもたくさんあったが、飾る棚板もろとも関東大震災で焼亡し、古めかしい慣例も終止符を打った。しかし、お正月をむかえるたびに、六寸の鏡餅が目の前にちらちらする。」
食べるものをとことん大事にする当時の暮らしの一端がよくわかります。鏡餅のカワがそんなに何年も食べることができるとは。
登志夫もこの話を「作者の家」に書いていますが、カワを何年も缶で保存していたことまでは書いていませんでした。

明治44年頃、早大卒業の頃の繁俊。卒業後すぐに糸女との生活が始まりました。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)