登志夫より、レニングラード、パリからの手紙
1965年5月31日の手紙より
「午前2時半です。レニングラードの「10月ホテル」10月革命に因んだ名。またまた歌劇団と一緒。
昨日朝着。早速昨夜観劇、今日も昼と夜。とうとう通訳が伸びてしまって、夜は途中で帰宅させた。私も疲れてはいるが、散々夜乱暴な仕事しているので、どうやら持っている。ひっきりなしに自動車が通る、ここは全く駅前ホテルなのだ。文化的には高いがまたちょっと奇妙なところです。澱んだ港町、しかも古いZarの町なのです。」
6月2日の手紙より
「今日トコヤへ行った。
通訳が、私がすぐ酒の話をするので、「私は奥さんにあなたのご主人は飲み過ぎる」と言いますよ、と言っていた。だからもしうちの女房が知ったら「東京ではもっと飲みますよ」と言って喜ぶだろうと言ってやった。飲みすぎるほどの酒も金もムードもなし。
嗚呼。さて明日4時35分パリへ行くが、これからはどこにメールをもらっていいかわからぬ。それにしてもあちこち回らねばならん。とにかくパリでユネスコセンターと話し、それで大体わかると思うのでそれ以後詳しく知らせましょう。7月はドイツ。ここはまたもっと動かねばならぬ。と言うのは夏でフェスティバルが主だからだ。では、今度はパリから。石沢秀二が来てるかな。」
6月4日パリからの絵はがき
6月6日パリからの手紙より
「今日は(日)、朝食のあと表へ出てみると、すぐ近くのチャーチへ行く人々がたくさんおり、自動車がぞろぞろパークしております。かと思うと、80センチもある長いパンを3、4本も抱えていそぐ娘、果物屋に並んでオレンジやさくらんぼ、バナナ、レモン、パイナップル、エトセトラを買う人々、犬を連れた男など。ここはやはり南欧を控えてヤサイ、果物がいい。ソ連とは段違いだし安くて上等です。昨日久しぶりにフレッシュなレタスサラダを食べました。
昨日は石沢と装置家で1週間前に来ている高田一郎と3人、飯を食ったり、飲んだり、ぶらついたりした。ひとつ、生肉料理を紹介しよう。ちょっといかします。(作り方のレシピや絵が描いてある)。私には馬の生肉の生姜醤油の方がやっぱりいいが。純フランス風(といってもドイツにもある。どっちが本家かしらぬ)のひとつ。ソ連と違ってホテルはいくらもあるし、面倒がない。通訳などホントは不要なのだ。ただ劇場のチケットの斡旋その他のために、また方々のオフィスで(英語の分からぬ相手と話す時位のもの。メトロも2、3度乗ればわかりやすい。とにかく楽です。身体もオーケー。」
6月7日の手紙より
「昨夜は、コメディーフランセーズで、コルネイユの芝居を見てきた。359回目の誕生日のための記念公演だそうで、終演後、コルネイユやラシーヌなどの人物が出てくるお祭り用寸劇あり。こういうことをやるのがいかにもモリエールが始めたと言うこの古典劇場らしい。
ここは、ソ連以上に、宵っ張りの国だ。ソ連は芝居は普通6時半開演で、長くて10時半だが、ここは早くて8時半、普通8時45分ときには9時の開演。終わるのはまず11時半から12時が普通。地下鉄も最終になることが多い。しかしタクシーに乗っても街全体は東京に比べてずっと小さいので大した事は無い。都心にいれば銀座から新宿位乗れば、大抵どこへでもついてしまう。だからなんとなく日本人に会ってしまう。」
6月8日の手紙より
「パリの女はやっぱり時折、あっと思うようなのがいます。それも地下鉄の中などで、化粧もせず、べちゃべちゃやってる学生などに多い。フランス語できればね。今、ホテルの下の通りは大騒ぎだ。何のことか分からぬが、おまわりの呼笛や警笛、学生たちが大勢ワイワイやって道端の道路標識を引き抜いたりしてデモっている。何ごとか。ひとつ見に行こう。パン、パンとかんしゃく玉の大きいような音もする。パリコミューンやフランス革命の国だからね。妙な時に、一致団結するところがあるのです。ただし外務省の河野氏も言っていたが徒党を組んだり暴力などはまずありません。これはソ連でさえそうで、市民の安全は概ね守られています。ホテルでも物はなくならない。アルプスから南は?だが。これは学ぶべきでしょう。この辺は日本はまだまだ幕末の名残と言わざるを得ぬ。
ドイツから先の連絡先は未詳。分かり次第出す。しかし転々とするので、ソ連、フランスのようにはいくまい。今、歌舞伎関係の事など交渉中。イギリスより1、2カ所で日本の芝居の話をしてくれと言ってきた。」
絵ハガキ。登志夫は、このノートルダム聖堂前で宗教劇を見るのが楽しみと言っています。
14日の手紙より
「このところ忙しくて、少々くたびれた。芝居のことより今度の仕事全体のいろいろの事務的なことをみんなこのパリで済ます必要があるからだ。歌舞伎のこともその一つです。今日午後もその歌舞伎をやるオデオン座と、大使館員と一緒に会った。」
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