訪欧歌舞伎の手帳③パリ

今回も、訪欧歌舞伎以前の、ユネスコ研究員としてのパリ滞在です。ここには3日から30日まで、途中アンジュー地区へ数日以外は長逗留となりました。ここでも毎日劇場へ。昼間はユネスコや大使館へ出向き、今後やってくる歌舞伎公演の舞台の設えの話をしています。

9日、大使館で花道を客席のどこに置くかという話をしています。花道をつくることでつぶす客席数を最小限にしようとして中央に、という現地案に対し、それは無理だと言っています。この日はBOAC(英国海外航空、いまのブリティッシュエアウェイズの前身)に行き、「美人のofficer」がいた、とわざわざ記しています。そこで「シナメシヤ(中華料理)」を聞いて、パリでは結構そこに通っています。登志夫は小学生の娘ふたりとウィーンで半年間暮らした時にも、よく中華料理屋に行きました。海外にはどこに行っても大体中華料理屋があるので、それを見つけてたまに行けばわざわざ日本食を買ったり日本料理屋に行ったりしなくても、という感じになります。

パリでもやはり毎日劇場と、その周辺の文化施設を見学したり、その後の旅についての打ち合わせなどが続きます。パリでは「疲れた」という記載が多くなります。この地での通訳、事務方はシャイヨンという女性。20日には、家に招いてもらいましたが、「両親はいい人たち。彼女よりずっといいのに何故彼女はこうおそろしい顔なのだろう。かわいそうである。」などと評しています。シャイヨンもやはり時間にルーズで、確認が不足しているという理由で登志夫のお眼鏡にはかないません。

21日、古い城の町アンジョーへ。ここでは、フェスティバルがあり、数か所の城で芝居が開催されています。シャイヨンも同行しますが、登志夫は食べ物に対する価値観の違いや、また、それ以外の理由もあり自由行動をする時間を増やすようにしました。

22日はまたシャイヨンの確認ミスで、、

「9時、マリボーの劇のつもりで城へ行ったら今度は場所がちがい、30キロも離れた城だという。一切がこうで物をたしかめるということをしない。自分にはそれでいいが、他国人には困る。」

連日フェスティバルを見に行く予定が、この日は台無しでした。

24日朝、パリにもどりますが、またもや予約していたホテルbalconはとれておらず、delavigneに泊まることに。これらのホテルは今もあるようです。

この日は文化省演劇課を訪れ、「ここでほとんどフランスのnational thr.のシステムがわかった。その方の仕事はまずよし」としています。それから報告書を書いてすこし肩の荷を下ろし、あとは出発までこの後の行程についてユネスコや大使館と話し合いをしたりします。夜はモンパルナスで朝3時までゲイバーやレズビアンバーを訪れたりも。毎日よく芝居を見、調査しました。





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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)