登志夫より、パリからの手紙

パリからの手紙の続きです。

6月17日の手紙より

「パリと言うところは、あっという間に時の経つところです。もっとも昨日は朝7時半起き(その前夜は2時ごろまで起きた)で、汽車で2時間半位の街へ、シティーセンターと交響劇場を見に行っていたのだが、今日行くはずの所へはどうやら行かないらしい。ここも、ソ連よりはだいぶマシだが、アレンジが遅くて、あと半月足らずと言うのにまだ予定が不確定という次第。で、今夜は石澤夫婦と生野菜、鮭の焼いたの、鶏のモモ焼きなど 、ワンタンスープ、焼きそばその他お茶漬けぶどう酒やや多量。
とにかくパリと言うところは忙しくて机に向かっている隙のない所ですね。ソ連と逆だ。しかもいろんな人に会うこと会うこと。」

6月18日の手紙より
「朝。もう朝になってしまった。通りが車でうるさいのでよく寝られなかった。さすがに少々疲れた感じ。でもこうしちゃいられない…、芝居のメモの整理もだいぶ溜まってしまったし。」

6月19日絵はがき
「7月1日にはドイツへ飛びます。ドイツ、イギリスの予定はその国々へ行かないとわからないのでまた知らせます。ノートルダムの前で受難劇を見た。なかなか壮大なものです。21から24日まで田舎へ行く。ではまた。」

6月20の絵葉書
「役所も休み、久しぶりにのんびりしました。日本語というものを用いない日がもうずいぶんあったようです。おかしなものだ。お前が短くしたと言うので、負けずに床屋で散髪、シャンプー13.5フラン(950円位)それにチップ、嫌になるよ。この点だけはソ連と日本が良い。その上今ホテルへ帰って風呂に入った(風呂代3.5フラン) 水面いっぱいの垢!
何やら疲れた。とにかくソ連フランスと万事苦手の国が続いて、ちょっと気も疲れたのでしょう。体は平気です。パリの劇は全く千差万別、この国の国民性が全く互いに干渉せず、されもしないのと同じだ。暑い暑い。寝冷えなどしないように。」

6月21日の手紙より
「今パリから3時間余のAngersと言う町に来ました。13~14世紀頃のお城の中でフェスティバルを見てきた。モリエールの「町人貴族」、花火を使ったり、いろいろで、芝居は面白かったがその寒いこと。お腹が減っていたし、薄着で行ってしまった。通訳が安いほうのディナーを頼んで、それに付き合わされて全く足りない。別れてからまたバーに入ってビールとサンドイッチを食べたが本当はまだ足りない。
ドイツのスケジュールはまだわからないが、もうすっかりできているだろう。ドイツとイギリスは早くからきちんとするところです。どんな旅になるか分からないが、正直に言ってユネスコのこのプログラムは決して余裕のあるものでは無いのです。ギリギリだねまず。私位にやっても余分は全く残らない必ず少し足が出ます。学生ならいいがこれは将来改正しなければいけない、でいずれそうなるでしょう。まぁしかし今日のこのホテルはたいそう静かだし部屋も良い。ピカピカに磨いた真鍮パイプのダブルベット。
ホテルが静かなのでどういうものか、小学生の頃読んだ西条八十の詩を思い出す。どうせセンチなものだ 妙に次の1節だけ覚えているのだ。
橄欖(カンラン) 樹下に駒とめて、絞る懐古の旅の袖…一人旅の仮寝の夢に孤独をいつの間にか感じているからなのだろう。これも。そして人間はちっとも進歩などしないとも思う。
フランス人の通訳が、タクシーを乗ろうと言うのにケチで、あちこち人に聞きながら、聞かれた人もいい加減に答えるので、ずいぶん歩かされた。」

ここでも通訳に煩わされて、疲れが倍加してるように見えます。

6月22日オンジェ(アンジェ)より絵はがき
6月22日の手紙より
「パリでオデオン座当事者との話し合いに関与したが、客席を多く潰せないので、斜めに、しかし十分長く設けると言う案よりないと考えてそういったら、東京からオーケーの電報が来たと館員が喜んでいた。在外交官の人など歌舞伎を知らないので骨だろう。」

6月23日絵はがき
6月26日登志夫のスケッチ

6月27日の絵はがき
オペラ座とコンコルド

6月30日の絵はがき
蛙がパリにgoodbyeしている漫画が書いてあります。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)