訪ソ歌舞伎、登志夫の手帳より①
1960年の訪米歌舞伎公演に続き、翌年にはソ連行きです。この訪ソ公演後には、406頁の厚さの単行本「歌舞伎ソヴェートを行く」が演劇出版社から刊行されました。編者は登志夫で、出演者から裏方、事務方まで、全員の感想が収録された大変な力作です。この本の最初は登志夫の「訪ソ歌舞伎の概要」という記事から始まります。
「訪ソ歌舞伎団は1961年(昭和36年)6月24日ソ連船アレクサンダー・モジャイスキー号で横浜港を出発、48日目の8月10日同船で同港に帰着した。公演はモスクワ13回、レニングラード11回、計24回。一行は本間誠一団長、市川猿之助、中村歌右衛門以下総員72名であった。(略)
前年の訪米歌舞伎は、健康上の理由により直接参加はしなかったが大谷竹次郎が団長であり、現地での実際上の仕事には松尾国三が副団長として当たった。それはまた日米修好百年記念行事の一環として日本政府が援助し、大蔵省・外務省の協力のもとに、形式上の主催者は国際文化振興会ということであった。しかし受け入れ側のアメリカは、実際問題としては外国からのひとつの興行物として扱ったという感じであった。それについては昭和35年の演劇界9月号拙稿「渡米歌舞伎の決算」に記したとおりである。
こんどの訪ソはいわばその逆で、内容は大谷会長の提供で、契約実行したのは本間興業社長本間誠一、つまり形としては一つの興行物として出張したものである。その契約事情、経過については筆者の詳しく知るところではないが、相手方の最高機関はソ連邦文化省、直接の担当機関はソ連邦国立芸能協会(ゴス・コンツェルト)でこれに対外文化交流委員会、ソ日協会などが協賛するという形であった。具体的には、たとえば、日本からナホトカまでの往復費用一切は本間興業の負担、ナホトカからのソ連領土内の交通、滞在費等一切は先方の国家負担、という具合である。そのかわりに本間興業は交換条件として二つのソ連芸能団体を招致し、日本国内一切を処理する約束であるときく。」
写真は船に乗り込む登志夫。最初の公演場所、モスクワまでは船、シベリア鉄道を乗り継ぐ大変長い道のりでした。
同書「訪ソ歌舞伎公演日記(市川猿之助)」によると、
「6月24日 朝時折雨、午後晴れ。午後三時横浜港桟橋着、見送り大勢、出航六時、長い時間の見送り誠に感謝に絶えず。船岸壁を離れる、テープ雨の如く、人々の影次第に霞む。(略)船中言語全く通ぜず困却この上なし。」
登志夫の手帳には、出発前に舞台マネージャー松竹永山氏より、初日は7月3日、ボリショイ劇場では2日にイギリスのロイヤルバレエが開くので競演となること、すべてに慎重に行動するように、特に写真と女に注意、人の和が大切、スリ、泥棒に注意、と皆に話があったということ、大谷会長からは命令系統を守り、国際的に汚点を残すなというお話があったことが書いてあります。
繁俊夫妻はじめ、登志夫の見送りもたくさん来ていたようです。早稲田の学生の中には女子もふたりいたと、わざわざ書いています。船は小田島(竹柴金作)、藤浪(小道具)、市川(医師)と同室の二等客室。手帳というのは、自分への覚書ですので、人から聞いた誰かのネガティブな話や一行の中でのもめごとなども実名で登場するので、なかなか見開き全部を公表できません。ここにも、「永山の話にて、永山・藤浪・金井・相馬が一団となっていろいろ視察することとする。アメリカ・ソ連の両方に行くとなると、ひがむ奴もいる」と永山氏の言葉として書いています。
出航した24日はこのあと、一同と暗くなるまでデッキで涼み、夕食は鮭卵?、トマトサラダ、羊のハンバーグ、紅茶、黒パン。その後藤浪さんとラウンジでビール、それから永山・延二郎の部屋へ行き、本間、野村、松蔦、八百蔵、高杉早苗(段四郎夫人)などが顔を合わせ、部屋に戻ってまた藤浪さんと「これは人には言わないで」、と念押しされての話を聞き、寝たのは2時半でした。
翌日は1日船上にて。船の従業員の女性と写真を撮ったり、映画を見たり、図書館に行ったり。
夜は、公演のとき、アンコールをするかどうかが話し合われています。猿之助は、前回の「吃又」をやったとき最後花道をひっこむとき、もう終了だと思った観客が握手を求めてきて困ったという話をしています。
26日も終日海の上。
永山氏から、翌日ナホトカについて本間団長が読むメッセージの原稿を頼まれて書いています。この日は夜9時半からパーティー。松蔦の手品、歌江・歌三郎の「わたしのラバさん」、升太郎らの「黒田節」などの余興が披露されたあとパーティに。登志夫お得意のダンス。「ピンクのワンピースの可愛い人」に誘われて何曲も踊りました。そのあとはまた永山氏ら数人と四時まで飲み、話しました。ダンスの話は、後年「銀座百点」でダンスの話題のとき、話しています。「横浜からナホトカまでソ連の船。その船中でダンスパーティーがありましてね、歌舞伎の連中は誰も踊れないので、ぼくが踊ったら、ロシアの女の子にすっかり尊敬されて、曲が変わってもべったりで、放してくれない(笑い)。高杉早苗さんが助け舟を出してくれてやっと解放された」と、嬉しそうに回想しました。
翌27日は睡眠不足で起き、船上で記念写真を撮ったり、連絡事項を聞いたりして夕方バンドの演奏などで歓迎され下船。それからバスで電車の駅まで行き、夜8時に出発。出発までの間、20名くらいが日本人抑留者の墓へ。同胞が無念の死を遂げた場所への訪問は、当時いまだ生々しく、皆さん色々な思いがありました。
手帳には、父が満州の要人で五年間ソ連に抑留され、帰国の日の三日前にナホトカで亡くなったという女性のことが書いてあり、その人は猿之助が俊寛をやると聞いてぜひみたいと言っており、猿之助は、そんな気持ちもあって「俊寛」を演目に選んだのだと言っています。墓参のあと、それぞれ色々な句を詠んでいます。登志夫の句は、「国おもう墓標の丘にれんげ咲く」。登志夫はここで見た無邪気な子供たちを見て、「この子らは日本のいまの子たちと同様、あの戦争を知らないのだ。この子たちの時代になったとき、世界に真のpeaceがくるかもしれぬ」と綴っています。
それから鉄道が8時に発車、車内現地の放送局のインタビューがあり、午後3時頃ハバロフスクに到着、ここでソ日協会代表や作家協会代表、市文化局代表などによる交歓があり、ここからバスに乗り空港へ。午後8時半ごろ離陸。イルクーツクまで行きます。天候悪化でここに泊まることになると言われますが、結局飛ぶことになり、10時頃離陸、12時頃ノボシビリスク着。3時30分頃スベルドロフ。日付は変って29日に。ここを6時に出て、モスクワと2時間の時差があるため、同じ6時に到着予定。実際は朝6時40分に到着しました。1時間バスに揺られやっと「ホテル・ウクライナ」へ。なんという長旅だったことでしょう。横浜港を出たのが24日…。6日かけての往路でした。
それから部屋割りのことや食堂の並び方のことなどで永山氏、加藤氏、野村氏、小田島氏らでひともめ。到着してすぐ朝食、イワシの油漬け(オイルサーディン?)、玉子焼き。11時半から2時間ほど記者会見。昼食にはカニサラダとチキンスープ、羊ステーキ。
この見開きにはこの日行われた班長会議の内容があります。やっと入浴し、その夜は歌舞伎公演が行われる劇場「ワフタンゴフ劇場」へ観劇に。「イルクーツク物語」。劇場の印象などを記しています。このあとまたもめごとの話などを聞き、「なんとなく多難を感じる」と書いてこの日を終えています。本当に、長旅お疲れ様でした、早く寝てください、という気持ちになります。
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