大入袋

訪ソ公演のお話に入る前に、一休み。
写真は、読売新聞2008年4月28日夕刊「人間列島東京都」で掲載されたもの。歌舞伎座前で、いい笑顔です。後ろに大きな大入り、の文字が…。
登志夫のエッセイ(日本芸術文化振興会ニュース2007年1月号)に「三親切と大入り袋」というのがあります。
三親切とは、黙阿弥が言った「役者に親切、見物に親切、座本に親切」です。
黙阿弥はこれをモットーに大入りを目指し、数々の名作を残しました。晩年の手記に自作ついて「大入」「中入」「不入」、例えば「河内山と直侍」は「極大入」というようにランク付けしているのが見られます。
登志夫のエッセイから引用します。
「大入りの時は、座本から出演者やスタッフに祝儀が出たに違いない。その伝統が今も歌舞伎座や国立劇場で関係者に配られる大入り袋に見ることができる。やや縦長の角封筒の表は、赤地に極太の勘亭流風で(大入)のニ字を白く抜いた、いかにも歌舞伎らしい洒落たデザイン。この形式の大入り袋がいつから始まったのか、調べた事はないが、はるか戦前からあった事は確かだ。
昭和初年ー幼少の頃、私は時々届けられる大入り袋を鋏で切って、中のお金をジャラジャラと盆にあける役目をしたのを、昨日のことのように思い出す。
(中略)
黙阿弥作品が当たったときの心祝いで宮古座とか寿座とか小芝居からのもあったと思う。
一番多い時は100通もあったろうか。中は今は100円だが、当時は5銭玉だから100件でも5円。とはいえ、市電(都電)が7銭、円タクの近距離が20銭から30銭の時代だから、5円はちょっとまとまった額だった。無論それが幼児の私の懐に入るわけはない。
が、たまに間違って10銭玉が出てきたりすると、キヤーツと喜んだものだ。(中略)黙阿弥の三親切がいっそう生かされ、毎月大入り袋が配られるような盛況が続きますように」
と書いています。
これは家に残っている大入り袋(当たり祝い)です。いまだに黙阿弥様と書いてくださっています。右端の平成25年柿落四月大歌舞伎は他のと比べて大型です。
ごく最近の大入り袋お目にかけます。
登志夫が亡くなってから3年後、斉藤雅文さん脚本演出で「作者の家」が「糸桜」として上演されました。素晴らしい舞台で、各新聞の劇評も好評でした。その際、登志夫と良子に大入り袋をくださいました。「極大入」でした!再演を待ち望んでいます。
こちらはその時の朝日新聞の劇評です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)