今日は、黙阿弥長女・糸女の命日です。

11月は、河竹家の主役クラス(?)の人物が多く亡くなっています。先日書きましたが、15日が繁俊、今日24日が糸女、そして28日が繁俊の妻みつの命日です。黙阿弥の次女で糸女の妹、柴田是真の弟子だった島女も、黙阿弥が亡くなる以前の11月25日に亡くなっています。

糸女が亡くなったのは、震災の翌年、大正13年。乳がんでした。生没年月日は、嘉永3(1850)年8月20日~大正13(1924)年11月24日。数え年で75歳でした。

糸女の写真は、これ一枚しかありません。若い時、疱瘡にかかったので、あばたがあったそうですが、それでも見た目が悪くて結婚を断念したというわけではないだろうと登志夫も書いていました。50歳頃の写真だそうですが、印象的な、いい顔に見えます。

登志夫の『作者の家』の末尾にある井上ひさし氏の「解説」から糸女のことを引用してみます。


「黙阿弥と繁俊とが〈祖父と孫〉の関係にあることは、ほとんど文学史の常識だが、じつは二人の間に、糸女という女丈夫がいた。この『作者の家』を一言で云えば、糸女の評伝である。黙阿弥の没後〈明治二十六年〉、河竹家を継いだ愛娘の糸女は、『父黙阿弥の遺作をもっとも理想的に受け継ぎ、そして守るには、父が生きていればこうしただろうと思われる方法、感覚、態度でのぞむことが、いちばん正しい』と信じ、十貫に満たない瘦躯を一生病身で過ごしながら、版権侵害者の男たちに気丈に立ち向かう。また、糸女は、江戸後半からの江戸狂言作者の日々の暮らしのしきたりをも堅守する。そして父黙阿弥を『真に江戸演劇の大問屋なり……、一身にして数世紀なり』と評価した坪内逍遙の仲立ちで繁俊を養子とし、その繁俊に嫁を迎え、やがて養子夫婦に『家』を譲る。著者(登志夫)は繁俊の死まで書ききって筆を擱くが、この、ほぼ一世紀にわたる長い時間の叙述が、作品のタテ糸=主筋である。それにしても、なんという烈しい女性なのだろうか、この糸女は。父黙阿弥の口述筆記の助手をつとめるかたわら、彼女は何篇かの台本を書いていた。また糸女は、三味線の名人で作曲にもすぐれていた宇治派一中節の開祖のお静の愛弟子で、二代目お静をゆずろうかという話が出るほどの才能に恵まれていた。だが彼女は黙阿弥の死後、正式に得度をすませると、≪女ばかりの家庭に不用不向きだからとて、愛着深かったはずの一中節の三味線と、徳利、盃いっさいの酒器とを、土蔵の床下にしまいこんでしまった……≫

つまり彼女は自分の未来をすべて『家』の中に封じ込めてしまったのである。また彼女は雷と注射が大の苦手で、老年にいたって乳癌を病んだときは、麻酔注射をいやがって結局は麻酔なしで切開手術を受けたりするが、こういう強烈な聖処女が主筋を引っ張って行くのだから、おもしろくないはずはない。」


登志夫は『作者の家』の冒頭、「幻影の糸女」の部分で、この「糸女を主筋にした」著書を書くにあたっての動機を書いています。


「震災まで、崩壊の坂を下っていく作者の家を、ただひとり死守しようとしていたのが、糸女である。(略)ほかに男の兄弟があったのに、なぜ女の身で、彼女が作者の家をつがなければならなかったのか。なぜふつうの家のように、しかるべき高弟でも婿に迎えることをせず、終生独身をとおしたのか。そうして、何よりも、大正という大きな転換期を、どんなふうに生きたのだろうか。

糸女のいわば“生活と意見”に、ふと私は惹かれる。(略)

父はいさぎよく、河竹糸女の養子として『仕え』た。仕える以上、養母を立て、批判がましいことを口にしたり愚痴めいたことをいうことは、許されない~その態度だけは、子供の私にたいしても、変わらなかったのである。また私も、そうした父を知っていたから、糸女のことを、父が口にする以上に、きこうとはしなかった。

が、母はまた、別である。糸女の遺言のことも、遺品類のことも、ほとんど母は今日まで知らなかったという。そういうものは、糸女の在世中から土蔵の奥の葛籠の中にあって、べつに秘密でも何でもないが、母の目にふれる折がなかったのである。(略)

しかし、手に取って見れば母には、糸女からきいた話や父の話とつき合わせて、これは何だ、それはこうだろうと、わかることが多い。ばかりでなく、実は糸女が父の留守に、母にだけ話したことが、いろいろある。しかもやはり女同士だから、父の気づかないことや、女性としての糸女の心の隈などが、母にはわかる……

父からきいた糸女、父の書き残した糸女に、母の語る糸女をかさねあわせ、そうして古い写真と遺品と筆跡をみていると、どうやら私の中の糸女の幻影は、すこしずつ肉体をもってよみがえってくるように、おもわれてくるのである。」


登志夫も、糸女の写真を子供のころから見て、繁俊から「おっかさんは、そりゃあたいした人でしたよ」などと話を聞かされてもいたが、その話は糸女が「偉すぎて」、人間として迫ってこなかったという。それで母のみつに聞いて、糸女の人生とそれにまつわる人や出来事を書いたのが、『作者の家』でした。繁俊の没後に、登志夫にとっては空白だった家の歴史が自らの取材によって、どんどん埋められていく経過は何度読んでも面白いし、毎回新しい発見があります。

糸女は十六歳で仏門を志し、生涯独身でいると決意し、実際その通りに生きた、決断力のある、意志の強い女性でした。関東大震災のときは両親の大事な遺品を死守し、黙阿弥の著作権が切れた翌年に亡くなったことも、その意志の力からだったのではないでしょうか。



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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)