登志夫の描いた繁俊肖像画

こちらは、登志夫が描いた繁俊。登志夫が 小学校1年生の時の絵です。昭和6年、数えて43歳の繁俊です。当時流行っていた帽子をかぶって、洋装です。

なぜか横顔で、眉をしかめ、鋭い眼は吊り上がり、口をきゅっと結んで、眼の周りは青く、とても話しかけられる雰囲気の人物ではありません。目のまわりの青さが、ドイツ表現主義を連想させる、という感想も。優しいお父さん像とはちょっとかけ離れています。急いで家を出ていく感じがよくあらわれています。裏には俊雄(登志夫の本名)少年の名前と先生がつけたらしい三重丸が。

登志夫は昭和43年2月号「学鐙」に、この頃のことをこう書いています。

「私の記憶はこの松濤時代のはじめ~父の第二の人生が開こうとする昭和二、三年からはじまる。

 そのころいつも父について耳にした二つの言葉~それはカイとコーセイというのだった。これは八、九年前朝日新聞の『父の一面』欄に書いたことがあるが、つまり、会と校正である、幼少のころ植えつけれらたこの二語はしかも、父の生涯を象徴するものだったようだ。が、幼児の私は『父ちゃんはカイに行ったのよ』という母の言葉から、暗い海辺でひとりカイを拾っている父を想像し、床の中で憐愍の涙をこぼした思い出がある。とんだ笑い話だが、腺病質でセンチだった私には深刻だったと見える。カイ~貝~海という連想は、父が逍遙をたずねてしばしば熱海へ行くからであった。それも母や私が当時病身のため、たいていは日帰りだったが。

 逍遙はよく両親の話にも出るし写真でも見知っていて、私も『坪ンのおじさん』といっていた。が、直接会ったのは、四、五年ごろのある朝松濤の宅へみえたときだけである。書斎へ挨拶に出た私に父は、『えらくなるように頭をなぜていただきなさい』と、ひどく真顔にいった。人前でことに父は行儀や口のききかたにやかましく、こわかった。やかましい養母(糸女)に仕えたせいだろうが、逍遙や三田村鳶魚のような気むずかしい人をしくじらなかったのが、わかるように思う。

 コーセイのほうは、ヒコーセンだと思って笑われた記憶がある。ツェッペリン伯号の訪日につながる記憶だから、四年ごろのこと。父の膝のあいだに落ちこむように抱かれて、机のうえに当時はやりのノンキナ父サンの漫画などをいたずらがきするとき、いつも父は古めかしい型のオノトに赤インキをひたしながら、コーセイをしていたのである。」


繁俊は昭和6年の事は自ら作った年譜になにも記していませんが、大事業だった演劇博物館建設の仕事を成功させ、早稲田大学と縁が深くなり、この頃は文学部講師で、演劇博物館副館長でした。前年には、自分の大きな仕事の柱になったと言っているNHK大学講座(もちろんラジオ)で、日本演劇史を週一回、三十回連続して受け持ちました。この講座で話をするためにずいぶん勉強もし、自分の仕事の方向性が決まっていったということです。当時は生放送ですから、この繁俊の姿は、NHKに通う繁俊かもしれませんし、逍遙のいる熱海に行く姿かもしれません。登志夫の文中にもある、赤インキをひたしながら、というのも、逍遙がそうしていたからで、いろいろなところに逍遙の影というか、影響があったのです。

下の写真は、この頃の繁俊。二枚のうち、下が昭和6年、演劇博物館で撮ったものです。登志夫の描いた横顔とくらべてどうでしょう。雰囲気をつかんでいる気がします。


こちらは……、次女が幼稚園で描いた登志夫の絵です。まだ登志夫が40代です。着ているものも貧相で悲しいですが、たぶん、甚平を着ているのではないかと思います。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)