今日は繁俊の妻・みつの命日です。
繁俊の妻、登志夫の母のみつの生まれや育ちについては、登志夫の『作者の家』に大変詳しく、この著書はみつの大変な記憶力なくしては生まれなかったと言っても過言ではなく、糸女、繁俊と並んでこの本の主人公です。明治30年に日本橋の、いまの日本銀行の向かい、本両替町の田中家に生まれ、元は莨問屋を営み、金持ちではありましたが、両親の不仲の中で育ちました。
この田中家は黙阿弥家に恩があったことから、本所の糸女が大水で困ったとき、しばらく田中家に迎えたことがありました。このうちの兄弟が行儀がいいのを、糸女はのちに養子に入った繁俊に話していました。繁俊は嫁とりの話が持ち上がった時に、糸女が気に入る女性をと考え、会ったこともありませんでしたが、「母さんが話していた田中の家の娘はどうでしょうか」と提案したのでした。繁俊には、逍遙の養女くにさんとの縁談の話もあったのですが、それは糸女にしても気をつかう話で、御辞退したということもありました。このことについては、「母さん(糸女)ひとりだって大変なのに、逍遙先生まで親にしたら死んじまうじゃあないか」と繁俊は笑って話していたそうです。
繁俊と50年連れ添った後、みつは登志夫一家とともに神奈川県逗子市に移住します。登志夫の最初の結婚の時の失敗体験もあり、成城に住んでいた時から息子夫婦とは別棟に住みました。みつは、登志夫より18歳も若い妻良子に、「なにか問題があった時は、登志夫を介さず、直接話しましょう」と提案したそうです。良子もそれに賛同し、以後ふたりが争ったりもめたりということはありませんでした。糸女とみつも下町育ちの気取らない話し言葉や生活スタイルの共通点があったそうですが、みつと深川育ちの良子もそんなところがあったのかもしれません。
大正6年の繁俊とみつ。
上は昭和14年、下は昭和41年。成城の自宅で。ふたりとも、植物が大好きでした。
家の中で転倒したことから最後は寝たきりになってしまい、伊豆や鎌倉などの病院で治療入院し、昭和59年11月28日に逗子の病院で亡くなりました。87歳でした。
命日は、なんと河竹家の信仰する浄土真宗の親鸞上人と同じ日。徳が高い仏とされ、葬儀の際、用意した読経料をどうしても受け取ってもらえませんでした。登志夫夫婦は、これをアフリカ飢餓難民のため寄付しました。みつは、アメーバ赤痢などのため、食べたいものも食べられなかったから、「よいことに使った」と喜んでくれたことでしょう。
スケッチも上手で、繁俊の『ずいひつ牛歩七十年』では、挿絵をいくつか載せています。
0コメント