河竹家と震災④繁俊の「震災の記②」

繁俊は「焦熱地獄」から脱しました。

「夜が明けた。陰惨な、はかない、絶望的なやるせない心持に満たされたわたしは、何事をおいても本所の方面へ取って返して、安否の知れるものなら知りたかったので、黒江町まで、焼けて落ちそうになっている橋を渡って行って見た。が両側の燃え残った火はまだ燃えていて熱く、呼吸も苦しく、路傍に焼死している黒焦げの死骸を、始めて見て足もすくんだ。或いはこれが倉沢君ではないか、附いていた車夫の男ではないかなどと骨格をしらべても見た。

 結局、本所方面へは橋がないから行けないし、永代橋も焼け落ちて渡れないと分かったので、又もとの原へ引き返した。

 やっと午後になって工兵隊の渡船によって渡れるとなって、永代を渡り、焼け野原と化した日本橋区を通り丸の内へ出た。永代を渡ってからは、到るところに水道が噴出していたので水には始めて困らなくなった。午後の四時ごろ丸の内のお堀端へ辿り着き、始めてふすぶれた顔を洗い、炊き出しの握り飯にありついた時には、嬉しいというよりも、いよいよ焼け出されの焼け残りという感が胸に迫ってなさけなくなった。」

繁俊は、その日、牛込の妻みつの実家に行きます。本所の家族の安否は依然わかりません。

「三日目の朝、牛込の妻の実家を出て始めて焼跡へ行った時には、まだ取り片付けに着手する前であったから、神田の柳原辺から焼死者があって、浅草橋から両国、本所へはいると、無惨なという感じが麻痺してしまう位であった。」

「三日目に堅川通りの焼死体や溺死体を捜索して歩いて、子供二人に女二人男一人という五人連れが砂利の上に黒焦げになっていた時、テッキリこれに相違ないと考え、翌日は遺物として歯を採ってくる積りで封筒へ名前を書いて行き、妻と思われるのを先ず取り、次に長女と思われるのの歯を取ろうとすると、味噌っ歯になっていた歯がチャンと生えているので、これは違ったと知り、傍らの人に聞くと、それは地震の時にやられたのを、出しておいたのだと聞かされて呆然としたこともあった。

 夢に、焼跡へたずねて来たと見て、涙を流したり、うなされたりしたこともあった。郷里へ向けて『ワレノミタスカリアトミナシス』と電報も打った。」

繁俊が糸と一人の女中、それとは別々に逃げたみつと長女の無事を知ったのは六日になってからのことでした。この記を繁俊が書いたのは、震災後まだ1~2か月の頃です。これから後、繁俊は一家の住む家を探し、重い火傷を負った長女を遠い病院に連れていき、仮住まいにいる糸を訪ねるという日課を徒歩でしなくてはなりませんでした。

登志夫は「作者の家」にこう書いています。

「それにしても河竹一家が震災で失ったものは大きかった。

万年橋で失われた信雄の生命は別としても、形あるものといえば、焼けただれた本所の土地と、石灯籠と、葛籠と箪笥がひとつずつ残ったきり。黙阿弥が粋をこらした書斎も、土蔵も、糸女の隠宅も、完成したばかりの十三戸の家作も、文字通り一夜にして灰燼に帰したのである。」

下の写真は、大正7年、結婚1年後の繁俊とみつです。本所の家の庭、石灯籠の前で撮ったもの。これが、本所で焼け残った石灯籠。この灯籠は、この後もずっと、平成24年、歌舞伎座の屋上庭園に移るために逗子の登志夫宅から運び去られるまで、河竹家の五世代とともに過ごしました。

下の写真は、歌舞伎座新開場直前の平成25(2013)年3月末、5階屋上庭園に、寄託した石灯籠と蹲(つくばい)が設置されたのを見に行った時の登志夫です。この石灯籠が、この震災で倒れたものです。よく見ると、下の方、斜めに線が走っていますが、これがその時に折れた跡です。登志夫はこのあと、5月6日に亡くなりました。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)