河竹家と震災⑤「作者の家」より/みつと子供たち①

みつは6日に無事がわかるまでどう過ごしたか、隅田川での恐怖と、長男との離別、朝鮮人虐待、辛すぎる体験が、「作者の家」に詳細に記されています。

「三組のなかでいちばん悲惨な目に遭ったのは、母みつであった。

 六十年近く経ったいまでも、その地獄のような光景はまざまざと脳裡に生きているとみえ、この話になると、八十四歳の老いの眼に涙が宿るのである。」

糸が、繁俊を待たずに先に行くというので、みつたちもそれに続かざるを得ませんでした。糸は、堅川橋を渡ってからしばらくいった川に落ちてしまい、ちょうどやってきた舟に乗せてもらうことができ、倉沢が持ってきた葛籠と、女中ひとりとともに舟の上で四日間を過ごし、助かります。倉沢は葛籠を運び込んで、自分は乗らずにみつたちを探しますが、見つからず、一人で避難することになります。糸は逃げるとき、日ごろから用意してあったお金の入った胴巻きを身に着けており、機を見て船頭になにがしかを渡します。川の両岸は猛火でしたが、一晩中水をかけたり、おむすびを食べさせてくれたということです。船に乗ったものの多くは、船火事を起こして溺死したといいますし、この小さな川で助かったのはこの船だけだということです。

みつたちは、糸が川に落ちたことを知らずに、人ごみの中、目の前に火が回り、呆然としてしまいますが、子守と四人、わずかに空の色が見えている方を目指し夢中で歩き、隅田川の河原に出ます。ここからは、水に入るより道がありません。

「突き飛ばされたり踏まれたりしながら、やっとのことで汀まで来てみると、右手に新大橋がみえ、すぐ左手には幅十メートルほどと思われる支流が流れ込んでいて、すぐそばに小さな木橋がかかっていた。

あとできいて、その支流は小名木川、橋は万年橋とわかったのだが、その橋の下を何艘もの舟が漕ぎ下っていく。艀(はしけ)、伝馬船のたぐいで、みな類焼をのがれるため、大川へ出て海のほうへと急いでいるのにちがいなかった。黒煙渦巻き、火の粉の降りそそぐ中で、岸に押し寄せた人びとは「助けてくれー」と叫び、舟をめがけて我勝ちに水にとびこんで行く。岸には行李や風呂敷包みやが、護岸の土嚢のように置き捨てられていた。もう、家財道具どころではなかったのだ。

 泳ぎが達者とみえて、大川へ勇敢に泳ぎだす人もあった。しかし舟を頼りに水に入った人たちのほとんどは溺れ、沈んだり流されたりしていった。舟べりにとりすがっても、船頭はその手をはらいのけ、櫂で打ち、つき落として行ってしまうのである。」

みつは泳げない。小名木川と大川の合流点に立って、助けてください、と叫び続けたが、振り向く舟はありません。萬年橋の上からは、真下を通る舟をめがけて、「箕からザラザラと豆でもこぼすよう」に人が落ち、皆川の中へ払い落とされ、上げ潮の深みにはまったり、大川に流されたりして、水面から没していくのでした。舟にのった女の髪が燃え上がったまま下っていきます。みつは、舟をあきらめ、この川岸にいるしかない、と思います。暮れ始めた川岸に、もう人影はまばらになっていました。

下の写真は、みつが子供ふたりと子守と、水を掛け合って、舟に助けを求めていた場所です。左の橋が萬年橋。この橋から、人がザラザラと小名木川に飛び降りました。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)