河竹家と震災③繁俊の「震災の記①」

さて、繁俊の「震災の記」です。これは大正12年に「女性」という雑誌の11月号に載ったものですから、まだ震災後1~2か月後に書いたものです。

「(略)地震の来たのは、正午二分前とかだという。その日は自分の勤めていた帝劇の九月興行の初日で、帰りが夜に入るから昼飯後に出掛けるつもりで、まだ宅にいた。ちょうど九月末に催すはずの女優養成所の卒業試演の出し物に選んだシュミット・ボンの「若きアキレス」にちょいちょい手入れをしていた。ド、ド、ド、ドーンと地響きがして、明らかに我々にもわかる上下動の地震が来た。(略)辺りは嵐のような凄まじい物音とともに大揺れ、池の水は五六尺も高く躍り上がり、石灯籠が倒れ、屋根瓦が落ち、ガタガタドタンと物の倒れる音が、ここでもかしこでもした。柿の木につかまって、私はかろうじて倒れはしなかったが、すぐに母が案じられたので、尻をからげたまま隠宅の前へ走って行った。

『母さん大丈夫ですか』と叫んだ。(略)母は女中二人とともに不安そうにしていたが、

『怖いじゃないか』と返事した。」


さて、繁俊は、糸を椎の木の下に薄縁(うすべり)を敷いて避難させ、そこに妻と二人の子供と女中三人を集めます。それから大地震の後に必ずくるという火事に備え、用意してあった火事道具を出します。揺り返しの中、土蔵から黙阿弥手稿の中でも重要な「横書き」の原本の本箱六箱を庭に積み、黙阿弥が友人柴田是真に頼んで書いたもらったもので、糸が大事にしている猪小屋を書いた屏風を用意します。

「三度目かに割下水の縁まで見に行った時、二丁ばかりしか離れていない本所の区役所からポッポと煙の立ちのぼっているのが見えた。区役所が燃え出しては危険だと思ったので、すぐにとって返し、母に立ち退きのことを、驚かせぬよう静かに、支度をしてくださいと言った。母は悠揚迫らず、ちょっとした平生着に着替え、着替えを三枚ほど風呂敷包にして人に持たせた。懐中物も平生用意してあったのですぐに取り出し腰へ巻きつけた。

庭内へ避難してきた近所の人もあった位で、まだその頃は安全至極に見えていたので、一足先に避難する旨を答えて、私は母を抱えるようにして歩かせ、水のあるところは負って越し、四町ほどを行った堅川の岸、そこには石材問屋が沢山にあって、小広い川岸は石の置場になっていた。そこのある家の前に持たしてきた小さい薄縁を敷かせ、母を居らせた。母も『家の番は誰がする?』と訊いたほどで、まだまだ険悪な模様は見えなかったので、わたしはそれから取って返した」

下の写真は、現在堅川橋の東側、繁俊が糸たちを待たせて引き返した辺りです。いまは遊歩道が整備されていますし、石材問屋もありません。

繁俊は、家へ戻ると各劇場で使用する脚本の箱を、庭のなるべく建物から離れたところに移し、皆のところへ急ぎますが、その時にはもう風が激しくなり始め、家を見納めだと覚悟しました。先ほどの場所に皆はいませんでした。追いかけるように、堅川橋を渡り、立ち止まっては探しながら、火に追われて進みました。途中一緒になった知人に誘導されて越中島に出ました。

下の写真は、堅川橋です。写真の左側が本所方面、右側が深川方面です。この橋を、繁俊は家族を追って行きます。現在は、この川の上には高速道路が通っています。


「草原の上へ寝て空を仰いで見たら、北へ北へと流れて行く黒煙の間から星がきらめいていた。『何時です』と聞いたら、『九時二十分』ということであった。わたしはこの原で助かったのである。もう、おそらくは、十分か否五分も黒江町にうろついていたら焼死しなければならなかったであろう。それは翌朝その辺の夥しい焼死体をみてそう思わざるを得なかった。」

助かった、と思ったものの、

「右手の方の古石場町から牡丹町方面の十丁位の町並が、見る見る中に、それはほんの一、二分間の中に、一面の火になった。焼けたトタン板が木の葉のようにビュービューなって飛ぶのが見える、聞こえる、右の頬がかあッと熱くほてる。と正面の陸軍糧秣廠に火がついて、煉瓦の倉庫を片隅から焼き始めた。その中に左側の商船学校、水産講習所の建物が燃え始めて三方が火の海となった。火の粉は雨のように降りかかり、咽せ返る黒煙はムウッと暑く顔に当たり、息苦しくされた。水溜まりの水は若い男や女の手によって、そのあたりの人々の上にザッザッと灑ぎかけられた。明け方の三時まで、火の粉と黒煙に襲われて戦っていたが、風は次第に収まり、南風だけになった。」

繁俊はここにきて、本当に助かったのでした。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)