黙阿弥の肖像

この絵は、文久3(1863)年「三題噺作者番付」。
一恵斎芳幾筆による48歳の黙阿弥です。

江戸の通人文人のグループ「粋興連」を、顔見せ番組形式で示したものの中の絵で、立作者の位置に「河竹」とあります。若く、生き生きした面構えの黙阿弥像。
「万延元(1860)年に柴田是真が、李龍眠陵の十六羅漢図を買い入れたのが評判で、それで思いついた悪刷りがあった。
後に、その掛け物を模写縮像して綴ったものができて、魯文が戯文を書き、黙阿弥は新羅婆袈選者(しらばけせんじや)とされている。」(「黙阿弥全集首巻」より)
それがこちらの絵です。

菩提樹の下に端座して、左の手に筆を持ち、腕組みをしてじっと考え込んで渋面を作っている力強い羅漢に見立てた像。
下は、文久2(1862) 年の四代目歌川豊国画による「俳優楽屋の姿見」。黙阿弥、小団次、豊国が組んで、次々と名作を送り出した頃です。
長い辛い修業時代を終えて、自由に天文を発揮できる自信に満ちています。47歳の頃です。
文久3(1863)年刊「粋興奇人伝」での黙阿弥48歳。似顔絵は一恵斎芳幾、小伝は仮名垣魯文、狂歌は自作です。三題噺の連中の粋興連と興笑連が合同で出版した三題噺集。
三題噺でも黙阿弥は人気1番で、顔つきもきりりと見えます。
元治元年(1864年)守田座普請出来惣浚の図。49歳の黙阿弥。三世豊国画です。
舞台の右下で自作の狂言の総ざらいを見ています。羽織の背に自分でデザインした「亀甲に根笹」の家紋がみえます。
下は、元治元(1864) 年、49歳の黙阿弥。三座が新築落成し、舞台開きの際の口上に見立てて描かれた錦絵の一部分。一恵斉落合芳幾筆。
意志強固で無口な人間像が描かれています。
慶応3(1867)年刊「くまなき影」、黙阿弥52歳。辻花雪の3年忌に際し、彼の仲間連中の肖像画を影絵風に黒一色で紹介し、それに代表作の狂歌と略伝を添えた狂歌集。「其水」は黙阿弥の俳号です。
「蓮の実の飛を見て飛蛙かな」

明治3.4(1870年) 年頃、錦絵「俳優四百四病」、黙阿弥55歳。
役者があれこれ注文を出すのに対して、黙阿弥がその柄に合った役をつけるのを、諸病治療に見立てています。
中央、台本で顔を隠しているのが黙阿弥。難しい立場ですから、顔を隠したくもなるのでしょう。滑稽な図柄です。
こちらは明治5(1872年) 年3月57歳、「日本橋品川街万林楼上店舗開の図」国周画。貸座敷万林楼の開店祝いの模様を描いたもの。文人、役者、舞踊家、邦楽関係者、相撲から遊女、芸妓など広範囲の人が集まっています。
黙阿弥は座敷中程にいて、花柳寿輔の踊りを見ています。
明治8(1875)年 、60歳の黙阿弥。断髪時記念写真。これを記念として「散髪」になったけれど
、不承不承の顔つきです。
明治11(1878年)年6月、 63歳の黙阿弥、新富座洋風新築会場式の図。陸海軍軍楽隊の吹奏楽と同時に、場内一斉にガス灯がつき、役者スタッフ一同が燕尾服で椅子に着席して行われ、黙阿弥は左手前列3人目位の所に。
「黙阿弥も逃げきれず、生涯ただ1度の燕尾服を披露することとなった。やはり気のせいか、いつものむっつりした顔が殊更不機嫌そうに見える。」(登志夫著「黙阿弥」より)

明治14(188I)年刊「俳優三十六句撰」。66歳
の黙阿弥。役者紹介書の口絵。楽屋で作者と役者が会合している。
この頃「黙阿弥は太っていたというが、絵で確認できるのは本図のみであろう。」(「没後百年河竹黙阿弥」解説より)
明治14(1881)年刊「英名百首」より、黙阿弥66歳。珍しい書斎での後ろ姿。
明治17年(1884年)刊「民間名士百家伝」、69歳。

明治18(1885)年、千歳座舞台開き。70歳。
今も絶えず上演される「四千両」「加賀鳶」「籠釣瓶」などが千歳座で初演された。70歳でばりばりの現役。今の明治座です。
明治25(1892)年、77歳、浅草の待乳写真館にて。当時の手記に身長5.6尺(168センチ) 体重16貫(60kg)とあり、何事にも動じない貫禄と風貌が見て取れます。
写真は上と同じ明治25年、77歳。
翌年亡くなるとは思えない力の入った鋭い目が印象的。作者魂を感じます。
以上、黙阿弥の画像色々でした。(良)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)