1月の黙阿弥作品

令和5年1月の歌舞伎座は「寿初春大歌舞伎」、コロナ以降、今月からやっと客席を100%販売しているそうです。
一部には「弁天娘女男白浪」、 二部には「人間万事金世中」 、三部には「十六夜清心」と、すべての部に黙阿弥作品が上演されています。
今年は黙阿弥没後130年に当たりますし、また歌舞伎座新開場10周年と銘打っています。1月は、歌舞伎座の他にも浅草公会堂で「連獅子」も上演されています。
つい昨日のことのようですが、10年前の黙阿弥没後120年には、いろいろな行事がありました。
また3月27日には、90年ぶりに建て替えられた歌舞伎座のお祝いで、銀座の街を歌舞伎俳優63名が練り歩くという「お練り」があり、3万人以上ものファンがつめかけ熱い声援を送りました。
翌日は歌舞伎座で「古式顔寄せ手打ち式」。210人の俳優、関係者が、真新しい舞台に紋付き袴で並び、登志夫が4月大歌舞伎の狂言名題を読み上げました。
その日からおよそ1ヵ月後に登志夫がなくなりましたので、河竹家にとって今年は黙阿弥没後130年、登志夫没後10年、歌舞伎座新開場10周年と言うわけです。

1月5日、9日に楽しんできました。お正月の飾りが美しく、いつもより着物姿のお客様が多く華やかでした。
玄関入ってすぐのロビーです。
劇場前右手の歌舞伎稲荷大明神には、参拝する人が絶えません。


下の錦絵は(二世)梅蝶樓国貞の描いた、「俳優楽屋の姿見」(文久2年/1862年)、で、楽屋ー作者部屋における壮時の黙阿弥です。
左から河竹新七(黙阿弥) 、市川小団次、清元延寿太夫

47歳頃の黙阿弥。
今月3部の「十六夜清心」は、安政6年(1859年)、1部の「弁天娘女男白浪」は文久2年(1862年)、に初演。この頃描かれた錦絵です。黙阿弥と小団次との提携が固まり、生世話物の傑作が次々と生まれていきます。またこの頃流行ったハイヨ節のこんな替え歌が、彼らの人気をそのまま伝えています。
「にがお豊国役者は小団次 ハイヨ  当時作者はのうみなさん川竹ひいきはたいそたいそ」
この唄の豊国は、この錦絵を描いた国貞の次の名前で、同一人物です。
繁俊著「河竹黙阿弥」(大正6年春陽堂刊)の巻頭の瑠璃版の77歳の黙阿弥の写真(明治25年/1892年)。この年喜寿の祝いをし、真の引退を披露して、翌年亡くなりました。

黙阿弥没後100年に「黙の字の謎」を中心に書かれた、登志夫著「黙阿弥」(文芸春秋社刊)があります。亡くなった日のことをこう記しています。
「明治26年1月22日、午後4時、本所区南双葉町3I番地の閑居において、最後の狂言作者河竹黙阿弥は、数えて78歳の生涯を閉じた。江戸に生まれ、江戸に育ちながら、幕末から明治へという動乱の時代を生き抜いた黙阿弥は、黙の字の謎も黒雪山人の正体も、温容、洒脱の孤影に秘めたまま、何事もなかったように安らかに逝ったのである。黙阿弥は、形の上では引退したが、黙の一字に込めて、密かに期した通り、現役作者としての生を全うしたのである。(中略)
黙阿弥の死は、新聞、雑誌に一斉に報じられ、読売新聞が追悼の詩歌俳句の公募を発表し、全国から寄せられたその中の俳句に
「なくなってからも舞台でものをいい」
などが伝えられている。
黙阿弥逝って百年ー作者は一代、「作者の家」も糸女の代で名実ともに終わった。
黙阿弥は家を離れ、生前にもたとえられた大近松や、シェイクスピアと同じく、万人の作者となり、相変わらず、日本の最多上演作者として生きている。対外戦争を予言し、自分の死をも予言した黙阿弥。だが、没後百年の今日までこれほど「舞台でものをいい」続けようとは果たして予想しただろうか。」と書いています。
この本が書かれてからも30年、今年没後130年の正月も「舞台でものをいい」続けています。(良)


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)