国立劇場のポスターをみて…

先日、ちょっとした用事で日本橋通り2丁目から銀座4丁目まで歩きました。途中京橋のたもとに国立劇場の宣伝用の看板があり、12月の出し物のポスターが貼ってありました。1部2部とも黙阿弥作品です。
私はなんだか嬉しい気持ちになりました。なぜってここは黙阿弥が生まれたところだからです。
黙阿弥は、江戸日本橋通り2丁目、俗称式部小路という、今の高島屋の新館の辺りで文化13(1816)年に生まれ、10歳まで育ちましたので当然この辺は遊び場だったはずです。また、17歳で銀座2丁目の貸本屋後藤好文堂の手代に入りましたので、職場でもあったわけです。
寺子屋に通うかわいい泣き虫坊や。
いっぱし遊びを覚えて、勘当の身分で芝居小屋をのんきに渡り歩く粋な貸本屋のお兄さん、当時の最先端を行っていた若者だったでしょう。この辺を歩く姿が目に浮かびます。
国立劇場は孫にあたる繁俊が、戦前の昭和12年に中村吉蔵を会長に早稲田演劇協会が意見をまとめて国会に提出し、衆議院で満場一致で建設を可決した劇場です。
以後亡くなるまでの30年間、建設に関わりましたが、開場式の日には病床にあり見られなかった劇場です。
昭和41(1966年)年、こけら落としに繁俊の代わりに出席して見た50年以上前の「車引」が今も鮮明に思い出されます。
黙阿弥は、政界学界の介入演劇改良運動によって苦境に立たされましたが、時代がかわったら、人知れずまた元の木阿弥となって蘇る覚悟で引退し、黙阿弥を名乗ったその年に書いたのがこの「天衣紛上野初花」です。
黙阿弥の苦渋の中のしぶとさ、繁俊の渾身のしぶとさが偲ばれます。
見事に令和の時代にも元の木阿弥となって、国立劇場で河内山に胸のすく啖呵を切らせている。
晴れた気持ちの良い冬の昼下がり、江戸から今日までの様々なことを考えながら4丁目まで歩きました。
三越のライオンはコロナのために迷惑そうにマスクをかけていました。(Y)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)