12月7日は、登志夫の誕生日。
登志夫は大正13年、1924年の12月7日生まれでした。生きていたら96歳です。年の数え方は、昭和の年号と同じで、昭和時代は大変便利でした。1歳になるのが大正14年の12月、2歳が大正15年、つまり昭和元年の12月。3歳は昭和2年の12月ですが、1月~12月6日までは2歳ですので、ここからは年号と年齢がほぼ同じなのです。
年譜などで、満年齢を記載する場合、ふつうは、その年に何歳になるかを書きますが、12月生まれの場合、実際は1か月しかその年齢になっていないことになってしまいます。ですから登志夫はいつも、数え年を使った方が正確なんだ、と主張していました。
でも、数え年はだんだん使う人もいなくなり、家族も数え年を使うと「数えなんていまは使わないよ」と年寄扱いすることもありました。黙阿弥や繁俊の年譜を作る時には数え年という註をつけて数え年を採用していますが、自分の年譜には、たとえば、「昭和43年 42~43歳」と丁寧に記載するようにしていました。
登志夫が生まれたのは、黙阿弥の長女糸女が亡くなって2週間後でした。『作者の家』に、自分が生まれた時のことを書いています。
「繁俊の日記には
朝電話あり男児安産の由自動車にて行く。雪になつて寒し、午前五時半頃に生れし由。男の大きな児なり。
と記されている。ほぼ予定日どおりで、特別大きかったわけではないと、母はいう。名前をつける段になり、今冬の初雪だから雪雄としようかとおもったが、寒そうでさびしい。といってさしあたりいい名も浮かばないので、繁俊の『俊』と、坪内逍遙の本名雄蔵の『雄』をとって、俊雄と名づけた。
ちょうどその日は糸女の二七日(ふたなのか)で、父は病院からすぐ寺へ回っている。
私は二週間の時差をもって、糸女とすれ違いに、繁俊とみつの次男として、此の世に生れてきたのである。」
上の写真は目がずいぶん寄っており、あまり面影がありませんが、登志夫の一番古い写真と思われます。震災からまだ1年、長男を亡くしたばかりですから、この子は元気に育つようにと、お祝いの晴れ着を三越呉服店で誂え、谷崎写真館というところで記念写真を撮りました。
下は家族で。震災後、仮住まいした渋谷宇田川の家です。登志夫の姉も、登志夫の亡くなる1年前に亡くなりましたから、この写真の家族はもう全員泉下の人たちです。
こちらはへその緒。長男が震災で亡くなって一年後に生まれた次男、へその緒もちゃんと立派に保管されました。ちなみに、登志夫の娘のひとりは、最近自分のへその緒の箱を渡されましたが、なぜか中身はからっぽでした。
毎年、集まれる時は家族そろって登志夫の誕生日を祝いました。これは2010年、水天宮のロイヤルパークホテルの中華料理のお店で86歳を祝ったとき、ろうそくを吹き消す直前の表情です。女の多い騒々しい家族でしたので、登志夫はいつも話す隙がありませんでした。もっとも、晩年は食事中に会話すると誤嚥の危険があるので意識してしゃべったり笑ったりしないようにしていました。
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