繁俊の日記から⑤/太平洋戦争最後の半年/昭和20年3~4月の記録

3月1日
 2月後半から3月に入り、俄然として敗戦的気分の流れるを見る、米軍の本土上陸の説も起こる。皆々疎開を申し出す。
物情騒然、街路、駅頭の人々の表情、コワバリて、陰鬱にて、ちょっとものすごき感をなしはじめた。
☆註 この頃、黙阿弥家を継いだ糸女の遺品や黙阿弥自筆本、台本、資料、その他を信州の生家の土蔵に疎開させた。
写真は戦後荷物が帰ってきたときのものです。

3月3日
 ○三宅大輔氏(片瀬在住)、訪問あっての話に、龍江寺の山に海岸砲を据えつけて、その試射を先日した。ガラス戸を外せとありて9発打ちしが、大きな音のするものなり。海岸砲は高射砲などでなく、近接する軍艦を打つためのもので、大きな口径のもの。また江ノ島も要塞化するので、全島民に疎開命令が出た由。
 ○また、大阪にてはデマが大変にて、25日には東京は全滅、御所もなくなりしとの噂なりと。

3月4日

午前7時に警戒発令、朝のこと故、艦載機かと思いしところ、B29にて小数機が静岡より、中部地方に向いしも、実は主力は東京爆撃にて、大本営発表にては150機、焼夷弾にはエレクトロンを用いたる由、相当の火災を生ぜしも11時半までに大方鎮火せりとある。朝よりの雪空にて、10時頃よりは雪になり、終日積もるも3寸(☆9cm)程なりき。

巣鴨方面、道玄坂方面(?)やられたりとの説あり。

 ○午後11時半頃警戒発令、静岡地区より1機ずつ間隔をおきて、5、6機耒襲にて各地に投弾せしものの由。
☆註 B29 、159機が東京区部を広範囲に爆撃し、650人余りが死亡。昨年11月からこの3月4日までの空襲により東京区部で2000人以上が死亡。(戦災資料センターより)


3月6日

午後11時頃に警戒発令、同様来りしものの由。

3月7日

午前11時に警戒発令、但し一機にて静岡より山梨地区に入り、中部地方に行きしとあって解除となる。これはB29とP51の戦爆の合わせしものの由。
夜分、高橋妻君が来た午前1時ごろより午前3時ごろまで、各所には時限爆弾を投下せし由、井の頭公園内には100発も落ち、朝の7、8時頃まで爆発し地中よりは水を吹き上げし由。
3月9日 下町大空襲
☆註 戦後、「ずいひつ牛歩七十年」(昭和35年新樹社刊)で“忘られない空襲“としてこの日のことを書いていますので、日記でなく随筆を載せます。

[太平洋戦争の空襲については、その都度のおぼえ書はあるが、そのうちで、身近にせまった2つの空襲だけを抜き書きしてみる。しかし、それにしても、直接の被害者でなくすんだのは、大勢の被害者に対してすまなくさえ思っている。]

                        ○
昭和20年ーー太平洋戦争が激しくなり、2月下旬からは、空襲が頻々とあるので、疎開騒ぎが急にやかましくなり、また事実危険がひしひしと迫った。ともかくも女子供のおびえた神経をしずめるためにも、郷里信州に諒諾をもとめ、家族を疎開させることとなった。
山妻と孫を連れている娘とをまず送ることにした。婿は軍医として軍隊にあったので預かっていたのである。
3月9日の夜、暮れてから8時ごろに連れ立だって新宿駅に出た。夜行の午後11時23分の中央線に乗り込むことにした。
そのころ、もう汽車は、どの列車もどの列車も満員つづき、いわんや夜行列車は大変な騒動。乗り込むまでは到着順に地下道に行列をしなけれらばならない。ホームへの上り口を先頭とし、もう二百人以上もならんでいた。見る見るうちに、あとからどんどんふえて、こんなに一列車に乗れるかしらと危ぶまれるくらい。
ところが、発車30分ほど前、午後の11時少し前になって警戒警報が出た。
これは困った、一日延ばすことにして、引き返そうかと、腹の中で思案しているうちに、もうおそかった。電燈が一せいに暗くなったと思うとたんに空襲警報になった。刻々の情報は、拡声器でアナウンスされたものの、それまでになかった大空襲となって、無慮3時間。
駅の近くの高射砲は一せいに火を吐いて、物すごい砲声だ。B29の飛行音は断続して地下道まできこえてくる。アナウンスよると、本郷、下谷、浅草、本所、深川方面に、猛烈な火災がおこっていると言う。
ーーいつ、この新宿に爆弾.焼夷弾が落ちないと限らない。もし一つでも落ちたら、地下道を防空壕としてうつぶせになている、何百人の人がいっぺんにやられてしまうのだ。自分たちもその中の1人になって、このまま爆死か焼死のほかはない、どこで死んだかもわからない、真っくろこげの死骸ーー関東大震災の時にいやというほど見せつけられた、あの焼死体にならなければならないーーといって、今さら地下道から這い出そうといったって警戒陣が出すわけもなく、また出てみたところでどうにもなるものではない。運を天に任せてーーと観念するのほかはなかった。お念仏やお題目があそこでもここでもおこった。ーーまことに死に直面しての三時間は、長くもあり短くもあった。
 午前一時ごろ、空襲は遠のいた。砲声もしずかになり、思い出すだけになった。新宿は幸いにやられなかった。命拾いができたのである。
 汽車もようやく出発ときまった。めいめい立ち上がって身支度をして、指令どおり四列に並んで待った。正常歩をというのが、いざとなると、駆け足同様の速度になった。階段をのぼってホームに出た。それからしゃにむに列車に乗り込んだ。幸いと階段近くに二 等車があったのですべりこんで、どうやら一同腰かけることができた。が思い出してゾッとするのは、それまでの行進であった。一つまちがって、足を踏まれてころんだら、どんな間違いになっていたことだろう。
ヤレ 安心ーーと思って、窓外に目をうつしてびっくりした。真昼と言うは過言だが、夕日に近い位の火焔の明るさ。東の方、下町方面の燃えさかる大火焔で、西のほうの果てまでも、また目にはいる家々の壁という壁、白壁がまっかに染められている。汽車の中の人の顔までも赤く照り生えていたのである。沿道の白壁が、八王子どころか浅川あたりに行くまで、まっかに見えたのだから、下町の猛火が思いやられるわけだ。(それはちょうど関東大震災の時、深川の黒亀橋の上で見た、一望の火の海と同じものであったろう)
 この騒ぎでは、東京を離れる気持ちにはならない。どうしたものであろうと、女どもには言わないが、とやかくと思いまどった。
しかし、はるかに西南の方、 成城方面、小田急沿線の方面には火の気もない。
よしまた、こういう空襲があったにしても、息子の俊雄がいるのだから、器量どおりに処置するよりほかに仕方もない。やはり1日も早く疎開させることだと腹を決めた。
 その考えをまとめるのには、かなりの苦痛があった。が、そのうちに列車も動き出した。詳しい情報はわからなかったものの、東京空襲としては、この3月10日払暁のは、はじめての大規模なものだった事は、ものすごい火事からも想像できた。
早暁の5時近くに、甲府駅におろされた。寒くてふるえながら待つこと1時間半、乗りかえさせられて信州路へーー。
疎開先に滞在し、打ち合わせをすること二日間、東京へて取って返してみると、三月十日の空襲では被災十万世帯、被災者百五十万人、焼死者十三万人ということで、親戚知人の避難でごった返していた。

☆註 世界史上最大の空襲となったこの夜の下町大空襲。
B29、300機、投下焼夷弾38万発、1665トンの焼夷弾。
死者約10万人、負傷者約4〜11万人
低空進入、絨毯爆撃の火災により、成層圏まで届くほどの乱気流が発生。この高く大きな火焔が八王子過ぎてまで見えたのです。

☆註 ここから日記に戻ります。
3月11日
○東京の罹災者が山本村(☆家族の疎開先市村家、長野県下伊那郡、現在の飯田市)にも続々と入りきたり、情報をもたらす。



3月12日
市村家に滞在中
○早暁1時より3時ごろまで甲府、名古屋に130機にて来襲その高射砲を打つ音は(☆泊まっている)奨(弟)の家にまで聞こえし、名古屋までは直径20里の由だから聞こえたのであった。
夜、警戒発令となりしが何事もなかりき。
☆註 この日名古屋大空襲、死者1300人以上


3月13日
早朝出発して帰京の途に着く。東上の途の各駅の出口々々には、罹災者のための救護所ありていかめしき事なり。
飯田市より外科医2名と看護婦が昨日東上せる由。
#上諏訪駅にて2等車の客に弁当15本を申し受けて買える話ありて予約せしが、韮崎にて「罹災者に給食のために中止になり」とあって、配給券を返させた。
○ 12日早暁の名古屋空爆にて熱田大神宮は無事たりし由。
汽車の名古屋着、通過の切符は売らず、岐阜豊橋も〇とあり、東京も田町よりお茶の水間不通の由。
○今回は奨の勧めによりて、地下たび2足を持参東上、むろん奨のを拝借または貰いしなり。
#以下は13日東上の汽車の中にて聞く話
○東京の各区役所が多数焼けたので、罹災者証明書できず困りたるとの話を聞く。
○ 九段あたりもだいぶ焼けし由、焼夷弾の不発が相当にあるという。
○主人助かり、家族がいけないのが実に多いらしい
○B29、焔にてよく見えた。あれだけ大きく見えているのに当たらぬものですね。(☆高射砲のことか)
○あの空襲を無事に逃れたは、よほどうまく逃げた人
○13日になりても、水道もガスも出ず、どうにもならぬ。
○目をやられた人多し。
○ 12日朝までは燃えていた。

☆註 3月14日から4月10日の間の日記は「ゴタゴタしていてつけず、その間のを飛び飛びに書く」とあり、移動中のは、便箋などに書き留めて貼ってある。よほど大変だったのでしょう。以下、4月11日までは覚書形式で。

○ 3月10日早暁のにては本郷は新花その他の土地3丁目まで全部やられた。〇〇さんの店も焼けた。
麻布もやられた。本所、深川は最も甚だしい。
○浅草の観音様、本願寺、諏訪様焼亡、行方不明者甚だし。焼夷弾ばかりにて、防空壕に荷物を持ち込みしは、皆窒息せるよし。
○親戚の罹災は吉村三五郎、岡田亀吉、吉村栄之助、小野国吉。門弟には梅松(死)、中川銀弘、奥田、銀ニその他あり。
○警防団の人々手伝いに行きて、2間四方の穴に300人づつ入れて埋めたと言う。襟に何か印あり文字あるは退けて見させ、他は改めも何もせずに埋めてしまう由。
○本所吉村の近所の人、平生1万円を肌につけていると言いおりし婆さんが焼けて、虫の息の時にそれを知りし何人かが持ちて行きしという。
○長野県に対し、罹災者収容割当は8万人の由。(全部では50万人)とある。

☆註  13日、大阪大空襲死者3987人以上
   17日、神戸空襲、死者2500人以上
   19日、広島、呉軍港空襲 
☆註 3月、米軍マニラ占領
   3月、連合軍沖縄進攻
4月1日
俊雄下諏訪へ出発の夜に警戒警報出るも、これは味方機の誤認の由にて解除、無事に出発。
2日の夜には来襲あり、7日あたりにもあり。
☆註 俊雄は東大数学物理学教室の疎開にともない、小平邦彦教授の戦時研究助手として、下諏訪、長地村に同行した。

4月11日
○ 3月10日の大空襲の焼けあと見る事は特にせざりしが、10日、11日外出して、銀座、日本橋方面へ、ーー火災相当なもの、白木屋も3階までは無事、それより上は焼けている。その他丸の内でも高等会議所のあたり、八重洲通りなど惨憺たるもの。ーー恐ろしき戦災よといわざるを得ない。
○貞山は隅田川に浮きおりし由、
☆註  講釈師、六代目一龍斎貞山、被災し隅田川で死亡
○梅若六郎も、隅田川に入りしところを船に助けられし由。梅若家は危ないところなりしとのこと。田辺氏話 
○山内盛彬(やまうちせいひん)氏の琉球音楽研究、原稿紙の高大にして7、8寸のものを、先日二葉小学校にて焼亡、悲観して死ぬといいしところ、田辺氏が哲明会に言って写させておいたのが1通ありて喜んだ。今はまたそれを田辺氏自身1通写して保存せんとしつつある由。美談!
☆註   山内氏は 日本の音楽学者、沖縄の音楽家 琉球音楽の研究と伝承に尽くす

○兄、咸(みなと)が丹精の「松井須磨子全集」は前田佐太郎氏の元にて防空壕の中にて焼亡の由ーー多数の被害あるべし。
☆註 市村咸は著名な郷土史研究家

○さる午前中の空襲の時、国領付近に撃墜された
B29はバラバラになって各所に落ちたーー4月11日登記所に行きての見聞にては、畑の中の一軒家の真上に一部分が落ちた、その家は何も残らずに潰れて燃え、屋敷にありし出産間もなき女子、防空壕にありし4人とも6人即死せし由、鋸(のこぎり)製造工場の者も大勢死傷して焼けし由。B29の機体の1部分の片付けしものを見たり。
○その頃か、三鷹の町長宅にも落ちし由。家は吹っ飛んだが家人は防空壕にありて無事なりし由。 


4月12日

朝8時に警報発、10時頃に空襲となる。12時ごろに解除、20機編隊のもの3、4、5編隊、関東北部に投弾、伊豆南部にも投弾、(この間にもあり)
☆註  この日、福島、郡山空襲死者400人以上


4月13日

 夜大空襲あり、爆弾と焼夷弾とにて、午後11時空襲となってから、午前3時まで高勢氏の脇に出て見ていた、全く3月10日早暁のと同じ行き方のもの。爆弾も混用にてピカッと光るとしばらくして、ドカンと凄まじい音がした。ーーこの夜に牛込、神田、高田馬場あたり、池袋、日暮里、水道橋など甚だしくやられた。 
☆註 城北大空襲、B29 は328機、2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾。被害は罹災家屋17万戸、罹災者約64万人。死者は2450人、豊島区、滝野川区、荒川区の住宅地が主。


4月15日

 この日も敵機、蒲田、大森、川崎方面、駒沢まで来し由。これも激しい火の手、B29が火の玉になって落ちたり、分列したりするを見た。高勢氏も見たりき。
この夜、山口太郎氏焼死せし由。ーー山口氏は13日に下落合にて焼け出され、家族を郷里に送って、自分は横浜の商業学校に至り宿直をしていた。すると15日の空襲、学校の宿直室は危険と感じたので、山のほうの防空壕に行く途中にB29が落ちてきて打たれたのだと言う。
☆註  B29 、109機、754トンの焼夷弾と15トンの爆弾、蒲田区全域焼失、罹災家屋5万戸、罹災者21万人、死者903人
神奈川、川崎空襲、死者1000人以上

☆註  3月10日の下町大空襲では、後に俊雄の妻となる良子(3歳)が、母に背負われて火の海の中を逃げ、越中島で奇跡的に助かっている。(2022年2月13日のブログ)


《続く》


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)