良子のこと①深川に生れ東京大空襲に。
2月は登志夫の妻良子の、傘寿の誕生月です。登志夫と良子は18歳離れていましたから、登志夫が生きていたら98歳。また小さなガラスでできた小物をプレゼントすることでしょう。
良子が生まれたのは、太平洋戦争二年目の1942年、その年の2月2日の新聞の一面は「全マレー半島を制圧」「ジョホール・バハル占領 上陸後55日の大戦果」とあります。新聞はほぼ全ページ各地での戦況を報ずる記事です。ラジオ欄には、「愛国詩『南洋を望んで」 山本安英」なんていうプログラムも。あとは体操、ニュース、軍歌、国民学校放送、子供向けの「東亜共栄圏の動物」、夜にはニュースの後、清元志寿太夫の「青海波」が…。
広告の下には、3行の求人欄や、土地家屋情報にまざり、「求妻 当方卅二…、二九迄情操豊な方」とか、「嫁度 当方教養有卅一容美 先方財教養有五十位迄の方子有尚可」妻、夫、養子、婿を求めたり、ちょっと驚くのは「乳児貰度 良家の申込故支度等望まず」というような赤ん坊を欲しいというのもいくつか掲載されています。この欄には映画の広告もあり、『元禄忠臣蔵』の後編が近日公開として高峰三枝子の写真入りで出ています。良子が生まれた80年前というのは、こうして見るとやはり、ずいぶん昔です。
良子の幼少期のことを書いてもらいました。なかなかちゃんと聞くこともないので、いい機会です。
「昭和17年2月、雪が降り積もる日の明け方、初声をあげました。父は32歳、母は29歳、226事件の日に生まれた兄は6歳、姉は4歳。父の猛は昭和12年から始まった日中戦争にかり出され、つかの間日本にいて、またビルマ戦線へ送られていました。猛の養父と幼い子3人を食料品店をしながら守っていたのは、母とくでした。
母は難しい養父と戦中の様々な困難で、性格がだんだん強くなり、女性らしさを失っていく自分を悲しいと思ったと生前漏らしたことがありました。
昭和19年には戦争が激しくなってきて、学童疎開が始まりました。数矢小学校HPによると数矢国民学校の3年生以上の希望者502名が、職員と新潟県三条市に疎開したそうです。3年生の兄も参加しました。遠足気分ではしゃいでいた子供たちが、汽車が走りだすと母ちゃーん、母ちゃーんと大声で泣き始めたそうです。家族から離れて寒い新潟のお寺で、ひもじい思いをしながらの集団生活は子供にとって辛い毎日だったようです。また離れている家族が戦地や空襲でなくなってしまえば、孤児になる恐れもあり、大きな不安をかかえてもいました。
HPによると在籍721名中空襲で死亡、行方不明が269名とあります。疎開しなかったり卒業式のために東京の家に帰ったほとんどの子供達が空襲で亡くなった計算になります。
級友の中には、家族が亡くなってしまったお子さんもあったようです。どんなにか大変な人生だったでしょう。
昭和20年3月10日の東京大空襲は下町一帯を無差別に焼き尽くしました。そこにいたのはすべて戦闘員ではない、慎ましく生きていた下町の人々です。
家族は深川不動から10分余りの、運河に囲まれた牡丹町という町に住んでいました。3丁目の表通りの真ん中辺りです。10日夜中すぎ、空襲警報が鳴り始めて、母は3歳の私を背負い、7歳の姉の手を引き、養父を促し家を出た途端、B29が落とした不発の焼夷弾の穴に姉が落ちてしまいました。
この後2時間で、江東区一帯は300機の大 編隊のB29爆撃機から落とされた32万7000発の焼夷弾と爆弾の絨毯爆撃で猛火に包まれました。闇夜の低空飛行で、木造が密集した町々を絨毯を引くように隙間なく爆撃し焼き尽くし、人々をも焼き尽くしました。死者は10万とも12万とも言われています。
東京大空襲・戦災資料センターの展示模型の油脂焼夷弾
姉をやっと穴から引き出して防空壕に向かう途中、若い女の人がパニック状態で、モンペ(木綿で作った簡易なズボン)もはかず、着物の裾を乱してフラフラしていたそうです。見かねた母は(何事にもしっかりしていた母は、モンペを2枚履いて逃げており)1枚を脱いでその人に履かせてあげました。そんなことでやや逃げるのが遅れて町の大きな防空壕に行った時には、もう逃げてきた人たちでいっぱいで入れてもらえませんでした。子供だけでもと懇願しましたがどうしてもダメでした。
両側の家もことごとく燃え上がり、道は火でうずまり、空も炎の中に旋風に巻き上げられながら、トタン屋根などが吹き飛んでいったそうです。
一刻もとどまってはいられないので、迫ってくる火を背に、追いかけられるように越中島方向に走りました。燃え始めている調練橋(この橋だと思います)を渡りましたが、向こう側についた途端に焼け落ちたといいます。後ろにいた人たちは、川の中に落ちてしまったでしょうが、見届けている余裕もありません。どこをどう逃げたか海近くの砂山に来て、もう逃げ切れない、ここで死のうとへたりこんでしまったそうです。そのとき、姉が母の手を全身で引っ張って、「逃げようよー逃げようよー」と叫んだそうです。それではっと気を取り直して暗い方を目指し、水産訓練所のようなところに入ったらしいのです。そこの責任者の人に会った途端に母は気を失ってしまったそうです。
翌日そこが牡丹町の避難所になり、途中で離れ離れになってしまった養父が、焼け焦げだらけの衣服に目を煙で真っ赤にしてここにたどり着いて、落ち合うことができました。母は自分はまだ若く働けるからと、ほとんどの現金を養父の腰にくくりつけておいたのですが、これも無事だったそうです。
これだけは持って逃げてくれと言われた、父のライカのカメラを確かめて見ると、間違ってカンパンを持って逃げていたので、これでしばらく飢えをしのげたそうです。
4人とも命からがらと言うのでしょうか九死に一生を得ました。うちの出口に落ちた焼夷弾が爆発していたら、町の防空壕に入いれたら、橋が渡りきれなかったら、母が諦めてしまっていたら、、、どのタイミングが一瞬でも違っていたら必ず焼き殺されていたでしょう。
この写真は、両国から深川方面を撮影したものです。町の防空壕の人々はほぼ全員なくなり、私の家の焼け跡に、家族構成が同じような真っ黒な焼死体があったので、お線香を手向けてくれた人がいたそうです。
東京大空襲・資料センターの展示写真
余談ですがこの越中島では、登志夫の父繁俊もこの時より23年前の関東大震災で両国方面から逃げて助かりました。登志夫の著書「作者の家」にその時の詳しい様子が描かれています。
焼け出された後は養父のわずかな縁で、旧信越線新井駅から何里もある字平丸と言う山奥の小さな村の、納屋のようなところを借りて過ごしました。
私の最初の記憶は、4歳位でしょうか、この納屋から向こうの山を見ながら「わーい、大根飯(だいこんめし)だ、大根飯だ。うれしいうれしい」と飛び跳ねている自分です。お粥のもっと薄い中に、干した大根のきざんだ葉っぱが入ったのが大根飯です。
これがその頃の私の最上の食事だったわけです。
母は、物々交換でしか物が手に入らず、苦労していました。干し柿を子供にねだられても近所では分けてもらえず、下の町まで買いに行き、何里もの道を背中いっぱいの干し柿を背負って登ってきたそうです。子供の笑顔が道に浮かんでくるので頑張って登ってきたと、何度も話してくれたことがあります。そんなに大変だった干し柿を私は食べた覚えがないのです。本当に申し訳ないことですが、大喜びで食べたはずです。
姉は村の小学校で「東京っ子」といじめられ、泣きながら帰ってくる日が多かったようです。
寒くてひもじい日々でしたが、お互いに大変なときに村の方がよく住まわせてくれたと思います。「良子ちゃん、お風呂にお入り」と優しく言って迎えに来てくれた隣のおばさんの声が蘇ります。
今回Yahooで調べてみましたが、見つかりました。ほんとに小さな村でした。
父はビルマでの最初の日に上等兵から水を持って来いと言われて、コップに水道の水をいれて持っていったところ「煮沸したか」と聞かれて、「いいえ」と答えた途端、数メートルも殴り飛ばされたそうです。泰緬鉄道の枕木と同じだけの人命が失われたと言われるインパール作戦から帰ってこられたのは、このことがあったおかげだと言っていました。兵士の多くは食料不足と生水で腸チフスなどにかかり亡くなったそうです。
父が戦地から、疎開先の雪深い新潟の山村に妻子を迎えに来たのは、終戦後1、2年経ってからだったと思います。
見たこともない男が、急に小さいな納屋に入ってきてひげ面を私の顔にこすりつけるので、痛くて怖くて逃げ出しました。となりの家に知らない変な人が家にいると訴えたそうです。知らないおじさんは飛行機をしてくれたり、遊んでくれてすぐに頼もしい、怖いお父さんに変わりましたが。
父は戦地での事はコップの水の話以外一切しませんでしたが、帰って数年は宗教団体の話など聞きに行っていました。今思えば、戦地での呑み込み切れないつらい心の整理をしていたのでしょう。
73歳で肝臓がんでなくなる数日前、聖路加の病室で私がついていた時に、ひどくうなされているので起こすと、大きな目を見開いて夢から覚めました。
インパールで河を渡った船を陸にあげて、何人かで担いで運ぶ途中、〇〇君が船の重みで、背中の骨が崩れて動けなくなってしまったそうです。けれどどうすることもできずに、おいて行かなければならなかったときの夢だったそうです。「本当にかわいそうだったよ。」としばらく黙っていました。「ベッドの上で死ねるなんて…」と、遠い戦地で亡くなった人々の無念の死の有り様を反芻しているように見えました。畳の上で死ねる幸せより、亡くなった人たちへの申し訳なさが勝っていたのでしょう。
亡くなるまでの40年間、戦地での様々な苦しみを誰にも言わず、夢でうなされながら生きたのかと思うと、辛い人生だったと思わないわけにはいきません。何冊かインパール作戦の本を読みましたが、どう考えても上層部の無謀な失敗だと思われますが。
父は元来無邪気で元気で、朗らかで、お酒が大好きな善人でしたが、戦地での軍隊式が抜けず、ちょっと怖い人でもありました。子供の頃の私は、父に口答えをするときには、下駄を両手に持って、玄関のところで大きな声で話して、父が怒り出したらさっと逃げ、遠くに行ってから下駄を履くようにしていました。
父は一足先に東京に帰り、木場の友人や友達に助けられて、バラックとは言え、小さな工場と住まいを建て、私たちを呼んでくれました。
ものすごく混んだ汽車で上京して、両国から徒歩です。私は父が引いてきたリヤカーに荷物と一緒に乗り、はるばると見渡せる焼け跡の中を牡丹町に帰りました。これが私の東京の原風景です。崩れたコンクリートの建物の他にはほとんど何もありません。
そのうちバラックもぼつぼつ建ち始め、子供たちも増えてきました。
幼稚園もまだありませんでしたので、大きい子も、小さい子も一緒に焼け跡でよく遊びました。
この写真は、昭和24年、江東区立数矢小学校1年3組の入学式の日に、富岡八幡宮の階段で写したものです。学校は八幡様の裏手にありますが、なぜここで撮ったのかは覚えていません。焼け残った講堂の改修がまだ出来上がっていなかったのかもしれません。
左上が守田誠一校長先生で、校長室を覗くと、おいでおいでと手招きして膝の上に乗せてくださり、絵を描いたり、校庭で遊んだり、生徒みんなを本当に可愛がってくださいました。右上は黒岩きん先生。
前から2列目の左からふたりめが私で、持っている写真の1番古いものです。皆、一張羅を着てきたはずですが、よく見るとまだ草履や下駄履きの子、ちゃんとした洋服の子は木場の材木屋の子供たち位です。みんな写真に慣れていないから緊張気味。世の中全体が貧しかったから、互いの身なりを軽蔑したりすることなどありません。
後で聞くと、栄養失調で歯がはえ揃わない子、梅毒の親から生まれたとわかる子、給食費が払えない経済的に大変な家の子、親戚に預けられて帰ってきて両親に馴染めない子、父親がまだ戦地から帰らない子など、子供の私にはわかりませんでしたが、大変な事情を持っている子供たちが多かったようです。シラミやノミが活躍していて、子供たちは校庭で頭にDD Tをかけられ、真っ白い頭で帰ってきたりしました。
私の父なども工場でできた煮豆や佃煮を大きなパットに入れて、ねじりハチ巻で学校へ持ってきて給食の足しにしてもらったり、他の父兄もそれぞれ役に立てばといろいろなものを持ち込んできたりしてくれました。校庭を横切る父兄のそんな様子を見ながら勉強していました。アメリカからの支援の脱脂粉乳はまずかったと言われますが、私は給食が楽しみでなんでも美味しくて、何でもよく食べました。これは今でもそうで、娘にお母さんは何でもおいしいのねとよく言われます。だって、大根飯が私の1番のご馳走だったのですから…。
この頃は、まだ埋め立ても、工場も自動車もあまりなかったので、東京湾の汐風が直接吹き渡り、空気も澄んでいました。夕焼けや星の瞬きや光輝く月、その美しさは忘れられません。運河にかかる近所の小津橋の欄干に両腕をのせて、その上に顎を埋めて真っ赤な夕日をいつも見つめていたことも思い出されます。それで飛蚊症になったのかなと今にして思います。
つららをつま先で蹴飛ばしながら、学校まで行くのも面白かったです。なんだか寒くて、太い大きなつららがありましたっけ。
お風呂屋さんの焼け跡で、残っていたタイルのお風呂を部屋にして遊んだり、両国の花火も子供たちは屋根の上からよく見ました。
馬が糞を落としながら、大きな長い荷台をひいて帰っていくのによじ登って、しばらく行って飛び降りたり。軟球で野球をするには蓮華の野原がグランドです。踊りを習いに行く途中で見つけると、浴衣の入った風呂敷包みを放り出して、男の子たちの中に入れてもらって遊んで帰りました。踊りは一向に上達しませんでした。こうやって書いてくるといろいろなことが思い出されてきます。2年生の時のキティー台風、泥棒が知り合いだった話、学校を休んで温泉に行った話、芸者さんになりたかった話など、またいつか書きましょう。」
下町に生れ、三歳で東京大空襲にあい、その後焼け跡から復興した東京と一緒に成長した良子の話は、黙阿弥の家の話の「スピンオフ」ではありませんが、本に書かれない家や人にも、色々なドラマがあり、覚えておきたいことがたくさんあります。良子の事は、また登志夫との出逢いなど、聞いてみたいと思っています。
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