繁俊の日記から⑥/太平洋戦争最後の半年/昭和20年5月の記録
5月7日
朝5時過ぎに警報発令、房総海岸を小型機10数機とあるに注意する、まもなく空襲となるが遠くに高射砲少し据えたるのみ。
B29、 3機ほどが誘導してP51が約100機、霞ヶ浦方面を攻撃せりとあり、P51は爆撃と機銃掃射をせしと報じたり。
☆註 7日または9日、ドイツ無条件降伏
5月9日
陸軍用の件にて砧国民学校に行く。築城のために私有地を提供する件にて、武器、兵員、馬ぐ等の保護のために、1mから2m四方の入り口を掘り、中に行きてグーッと長く横にひろがるものの由。有無をいわさずに決める。畠はなるべくさしさわりなくやる由。砲を動かすだけの道路も。
○城の1部となる事となれり!
☆註 武蔵野台地の丘の斜面を要塞化するための土地収容。生えている松の木も木炭にするために供出。
5月24日
午前1時半より3時頃まで大空襲ーー渋谷百軒店、代々木、千駄ヶ谷、四谷、慶応病院、文相官邸、芝、品川、目黒あたり焼亡。
☆註 この日の大空襲は荏原区、品川区などの住宅地。520機のB29が3646トンの焼夷弾投下。罹災家屋は約64万戸、罹災者約22万人、死者762人
B29の機数、焼夷弾のトン数とも最大です。(戦災資料センター)
5月25日
前出「ずいひつ牛歩七十年」“忘られない空襲“に5月25日の東京大空襲の日のことも書かれていますので、日記でなく随筆の方を載せます。
「5月25日、夜の10時15分頃より空襲警報。(この日午前中にも小型機P51戦闘機というのが70機で来襲した)が、25日のは東京大空襲の最後と言ってもいいもので、夜の10時ごろから翌朝の午前2時ごろまで300機に及んでの大空襲、3月10日のと対照的なものであった。
10時ころの、はじめのは房総方面から侵入して爆弾を投下したというが、その後のは駿河湾から入り、西方、富士山を目標に旋回して東京山手方面の攻撃。4、5機づつ、ある間隔をおいて、ごうごうと爆音をたてて頭の上を通っていく。市街の山の手ばかりでなく、郊外の目ぼしい建物まで総攻撃したのだから、もう今夜はダメだと観念したのもこの夜のことだった。
都会地である東方、北方はむろんまっかに燃えている。爆音が、ちょっととだえると外へ出て様子を見るのだが、次々に大きな火事があっちにもこっちにも燃え上がっている。学校が軍需工場化する傾向があったので、前以てそういう建物が調べてあって、焼夷弾を落としているものであるらしい。なかなか正確だと思わせるものがあった。
小宅は丘の上にあるので、焼夷弾の焼き払う段取りが手に取るように見える。
B29が焼夷弾を落とすと、ツーツーと口火(道火)を引いて落ちてくる、地上200メーター程度のところまでくると、それが3つ4つ5つ位にパッパッとわかれる。さらにそれが落下して、地上近くなったところで、またその各々がパラパラと花火のように広がり、わかれて落ちる。落ちるが早いか、パッと燃え上がるのである。
狛江村の小学校は、20丁(☆2km)ほどもむこう、西のはしにいつも昼間は見えていた。そこへ落ちた時などには、コンクリート(?)の校庭にパラパラと燃えて落ちた焼夷弾がバウンドして、まるで噴水のようにはねあがった、というまに、校舎がメラメラと燃えあがる。ワァー!と言う人々の叫び声が反響してくるのである。南から西、北の方までかけて、六ヶ所に大きな火の手が上がって、炎々と天をこがしている。
すぐ目の前の田んぼにもいくつか火の尾を曳いて落下した。そしてあたりが煙硝くさくなってきたので、ほんとうに今夜こそは、ダメだと覚悟をきめたのであった。
☆註 日記には、焼夷弾の爆発の様を見て実に地獄図の感である。あれでは助かるわけなし。と書いています。
が、やがて午前1時すぎ、爆音はとだえた。それにしても高射砲と言うものは全く無意味なものに思われた。
ようやくにしておさまったので、家のまわりをぐるっと1周してみると、東北の方に火の手が上がっている。火の粉さえ見える近いところである。ちょうど来合わせていた息子をうながして見聞に行ってみた。それは成城大学で、校内の、ある校舎が燃えているのであった。だれもあたりに人がいないので、バリバリと燃えさかっていた。
成城の街の住宅は一軒もやられなかったので、1時間前の非常警戒も忘れたように無気味にしずまり返っていた。
その中をただ1機、同じB29が、爆撃後の偵察をするのであろう。悠々と高いところを飛んでいる。どこかの探照灯に照らされて胴体が青白く光っている。西から東の方へ飛んで行く。ちょうど生えていた松の枝をすかして見上げたとき、そのそばに小さな1つの飛行機が尾行をしているらしく、火弾がスーッと飛び出してB29のほうに飛んでいったが命中はしなかった。オヤと見るまにもう1発、しかしそれもあたりはしなかった。B29は別に応戦するでもなく、悠々と夜空を青白く飛んでいった。」
☆註 この大空襲では政府機関、金融、商業の集中する都心地域と、宮城(皇居)内の宮殿、都心から杉並区にかけての西部住宅地が襲われた。
コンクリートの建物もあるため焼夷弾だけではなく貫通力の強い爆弾も使われた。464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下した。被害は罹災家屋16万戸、罹災者約56万人死者は3242 人。(戦災資料センターより)
☆註 ここからは日記に戻ります
5月26日
俊雄と朝見に行くと祖師谷方面きれいに焼けた。
利光家(☆娘の嫁ぎ先)を望遠鏡で見たが、狛江小学校の影で見えず、すぐ俊雄とともに7時ちょっと過ぎに、線路づたいに見舞いに行く。てっきり焼けたと思ったが、幸いにあの1角は焼け残り、見舞いをのべて帰る。焼夷弾の30本が固まりしが不発にて落ちしは、屋根を抜き、床を抜けて、床下の土中に深くめり込んだという。直撃では人命持つわけもなし。
○帰りに焼夷弾の燃えた後の六角のカネ筒を拾ってくる。田の畔に不発のがめりこみて、つけてある布を手に2人位でぬいてもぬけず、田、畑、所々堀って抜き取りしあとあり、民家数戸その他、2丁(200m)位にわたり焼けていた。
○25日のは新宿方面より、世田谷、玉川にわたり被害は相当のものの由。
電車は終日不通、但し経堂間はあり、経堂より以北、中原辺、代々木八幡辺は大事の由、初台の高台の家は全部不可、甲州街道の両側は焼亡、京王線も不通なり、中央線は荻窪より西だけ通ずる由。
5時のニュースによれば、大宮御所宮城(☆皇居)の1部炎上、渋谷駅付近、新宿は伊勢丹、三越、武蔵野館の辺り一面にやられたとある、山手方面相当のものと考えられ、午前2時ごろまで大火災が空に赤く反映していた。
26日 夜、5時より、清水虎雄氏、印南高一氏を招待して、精進アゲ、ノッペイ、竹の子などを馳走する、ちょうど酒の配信(☆配給でくばられた)もありたり。
その場での話に、物資に欠乏の由、ゴム、油の類もう1年とは続かぬ。ソ連との外交方策に待つ所あるものの由、前途甚だ憂うべし。
○電車不通、電話も不通のため何の情報も得られぬ。
○ドイツのようになりては大変なり、
5月27日
7時のニュースによれば、赤坂区役所は山脇女学校に、世田谷区役所は豪徳寺あたりに、淀橋区役所は豊玉病院に、麹町区役所は?に、それぞれ移転する旨あり、麹町はほとんど全滅とあり、各方面とも相当のもの、新宿の駅はない由、渋谷の駅もほとんど影をとどめぬ様子。
夜に入り、伊藤信夫君(AK社員)の話に、放送局は無理なり。東京駅、新宿駅も焼けた。
早稲田も演博(演劇博物館)も、大隈講堂、理工科もやられし由、明日は行こうと思う。
牛込弁天町あたり一帯は焼亡、日比谷公会堂も1部やられ、歌舞伎座、演舞場も焼けたとあり、今回は相当にやられしものと見ゆ。
中央線は中野まで本日通るらしい。山手線は田端池袋間だけ運転、他は不通とあり、いやもう大変なる事
○狛江の隣家の小賀氏の家に落ちしは、軍隊来て掘り出したと言うが、200キロの焼夷弾のよし、つまり、何本か1束になりしものが、そのまま落ちたわけにて、屋根、天井床を抜けて、床下の土中、6尺(☆1、8m)もめり込みしよし。家の内は油臭くていられない。実に恐ろしいもの、今回の焼夷弾は特別のもののようなりとある。
○新聞も郵便も更に来ぬこと2日間、読売新聞社焼けし由。放送局、日産社その他少し残り、他はきれいになる。おいおい情報来るに従いて、被害はますます大となるらしい。
5月28日
朝7時のニュースによれば、東京駅は開通、乗り合いにて経堂ー新宿、新宿ー下北沢、渋谷ー築地をやる。山手線は代々木ー恵比寿ー田端ー池袋の由、
○牛込にありし理工学部研究所の下の防空壕200人位入りて全部死亡。その他防空壕に入りて蒸し焼きになりし人甚だ多き由、
○銀座は松屋、三越、皆やられ、服部と東宝本社だけ焼けず、新宿は伊勢丹直撃弾来たというが焼けず、三越は無事、その他の映画館は1舘以外は焼けた、第一劇場は助かりし由、
○高勢氏話に落下傘にて落ちた捕虜を捕まえしが、その米兵は16歳、ペラペラと白状せし由。空襲は24、5日より29日まではやる予定とあり。また南武線の松田多摩川より、4つ停留所を西に行くところに大薬庫あり、法政の学生が運んでいる由。それを知っていて狙ったのだろうと、実によく知っているのであるとの事。
映画俳優にても死せし人ある由。
5月29日
午前7時に警報発令、それより8時に空襲となり、B29 500機、P51、 100機、横浜、川崎方面をやる。8時半頃、防空壕より出てみると、横浜あたりよりモクモクと震災の時のような雲立ちのぼり、黒煙たなびき大変なりーー7機〜13機位の編隊にて焼夷弾中心の由、
☆註 横浜大空襲死者8000人〜10,000人
11時ごろに解除となりて早大に出発する。
○南新宿にて降りて、原田、印南両氏(☆両氏は演博職員)とともに徒歩にて行く。1里位。
5月25日の空襲で爆撃された早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
☆註 河竹家にある、できたばかりの昭和5年頃の演劇博物館の写真
☆註 坪内逍遥の古希と「シェークスピア全集」全40巻を記念して昭和3年(1928)に設立。繁俊は恩師逍遥に実務を任され、寄付金集め、建設、資料集めその他に奔走して、たびたび倒れながら尽力しました。そしてこの時は館長を務めていました。
空襲が激しくなった3月には、貴重蔵品を戦災から守るために80個の箱に詰め、貨車1台を借り切って疎開させました。その先は、信州の繁俊の生家の土蔵でした。別途に送った河竹家の貴重な資料と同じ疎開先です。
繁俊は大正12年9月の大震災に会い、河竹家の家、財産、台本などすべて失い、その上、火に巻かれて長男を隅田川で亡くしていました。その直後からこの演劇博物館の建設に携わり、17年後にまたこの災禍に襲われたわけです。
演劇博物館は幸い屋根を破壊されただけで済みました。善後策を講じてから、この後早稲田から銀座のAKまで歩いて行きます。
○ 4時少し過ぎにAK(NHK)に行くつもりにて、高田馬場に行くと秋葉原しか行かぬという、仕方なく歩く決心をして、また引き返して、穴八幡のところより檜町、矢来下、神楽坂、九段、美大使館前、半蔵門、三宅坂、外務省横、海軍省脇を通ってAKに行く。
○6時半、六代目菊五郎、男女蔵、菊之助等に逢う。解説をすまして早々に出かけ、(☆歌舞伎の放送があったのだろうか)新橋より田町まで行きて、山手線に乗りかえ、原宿にて乗りかえて代々木まで行く。代々木より南新宿に至りて小田急に乗り経堂にて乗りかえ、宅へ帰りしは11時、正味3時間を要したる。
○ AK に急ぐ時に馬場下町あたりで、警官の乗りしトラック急ぎ行くを見る。
ふと見ると、荷物は平べったきものなれどもトタン板をかけてあり、その中央部に焼け焦げの人間の死体あらわに見えている。すなわち皆、荷物は人間の焼死体なるべし。早大理科研究所の崖下に堀りし大きな防空壕に、学生、近所の人など皆入りしものムシヤキになりて5 〜600人もありしと言う、それをまだ掘り出しているなり、代田あたりにても同様という。
○今朝の横浜空襲で大船より歩いて上京せし人の話にては、横浜は全くめちゃめちゃの由。
5月30日
今日の新聞によっても、26日以来、行く方不明の知名の士の中に石井菊次郎夫妻、日銀副総裁、織田満博士夫妻の由、驚きしもの。早大の神山大工さんの如きも、家をちょっと出た裏にて焼死体となりて歯にて判明せし由。今回の焼夷弾は、直撃弾ならずとも生命を奪いしこと甚だ多し。
☆註 石井菊次郎は外交官、政治家、穏健派。
織田満は法学、行政法学者、政治家、国際司法裁判官としてハーグ赴任。
《続く》
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