繁俊の日記から④/太平洋戦争最後の半年/昭和20年2月の記録


既にマリアナ諸島を基地にした米軍のB29が頻繁に日本全土を襲うことになります。
「ずいひつ牛歩七十年」(新樹社刊、昭和35年)に「待避」というタイトルの随筆が載っています。


「昨冬(昭和19年)12月27日午後の空襲の時、自分は帰宅の途上小田急線の代々木上原駅で待避に入った。構内の防空壕は誰いうとなく婦女子に譲り、私どもは境界の植え込みや待合室の柱や民家の軒下などを小楯にとった。体当たりした友軍機から落下傘が2つまで開いたのを見ては、思わず皆立ち上がって係員に叱られた。
その途端、パリンパリンと瓦屋根を打つ鋭い金属音が耳を打つ、銃丸だ。民家の開け放たれた窓から若い娘さんが叫んだ、「子供さんをおぶった方は3、4名宅の防空壕へおいでください、さあ、どうぞ」救われたように子供づれが、垣根を押し分けて家の中に消えた。
 約1時間半の後、電車は動き出し、次の駅でどやどやと乗客が詰めかけた。その中に73、4のお婆さんが、中年の産業戦士にいたわられてきて腰掛けた。老婆は涙ながらに親切を謝していたが、間もなく降りようとした時追い縋るようにして、5円紙幣をポケットに押し入れて、「心持ちと言うものですから。」と頼んだが、その人はどうしても聞き入れなかった。
「空襲の場合などに年寄りをお世話するのは当然です。」
と押問答を重ねるうち、2つまで駅を通過した。見かねた人がやっとおばあさんを納得させ、言葉のお礼だけですまさせた、車中は急に明るくなったような気がした。(朝日新聞、昭和20年2月掲載)」

2月2日 

午後8時頃警戒発令、1機静岡より侵入し、関東局南部より東部に至り、1部に投弾して海上に脱去。約40分にして解除。
○さる1月27日の銀座街空襲の時は、空襲発令後20分もしてから解除のサイレンが誤り鳴らされたので、地下室に退避せし人も出てきて、有楽町駅などに殺到したところへ落ちたのだという。

 2月7日 

午前8時頃警戒発令、敵1機房総半島より侵入、関東地方偵察の後脱去、まもなく午前9時頃に敵1機、伊豆半島より、相模平原を偵察の後に脱去、10時5分前に解除となる。 
○1万メートルの上空の場合は、「隼」にしても40分を要する由。本土侵入と聞きて基地を出発して、銚子上空を目指して飛ぶのだそうである。
 ☆註 陸軍の一式戦闘機、愛称は隼(はやぶさ)。「疾風」とともに主力機として運用された。

 ○A.Kの隣は海軍航空本部である、その辺り目下地下工事をしている。今頃からで間に合うのですかと聞けば、「いや3月に入りての空襲はもっと大規模になりましょう、その時のため」だと言うわけ。3月以降は思いやられるというもの。
 ○新聞紙は、1ヵ月に14ページしか割り当てられぬ由、それを如何ようにでも使ってくれと申し渡した由、4月以後のことらしい。紙はもはや北海道のは運び尽くして、今度は樺太から取り寄せねばならぬ由。

 2月10日

午前9時半警戒発令、敵1機東部に侵入、東北部より西北部にまわり相模湾より退去、
さらに新たなる1機、中部軍管区にあって、信越南部に入りて、京浜地区北方を通りて海上に退去、11時に解除。
2回とも宅の庭上よりよく見えたり、高射砲も打ちたり。
 #高田俊郎氏談、高射砲は発射後40秒たちて到達し、炸裂するよし、ソレ故当たらぬもの。日本は1500発に1発命中の由、ドイツは2500発に1発命中の由。
○午後1時半警戒、2時少し過ぎて空襲に入る。まず2機静岡地区に投弾して去り、
房総より第1から第5編隊まで計90機侵入し、関東北部に至る、旋回中とあり、(関東北部は栃木、群馬なり)何を目的にせしものか吾らには不明なり。

○午後8時頃警戒発令

○午後11時頃に警戒発令
☆註 この日群馬県太田市の中島飛行機が目標にされ、150人死亡   


○11日、12日、14日も頻繁に敵機襲来による警戒、空襲警報発令続く。

 2月15日 

○午後2時少し前に警戒発令、名古屋が主、三重の宇治山田、静岡地区にて、京浜方面は少数機にて2回ほど来て解除。
○午後8時頃に警戒発令、少数機、伊豆北部に投弾の後退去、9時少し前に解除。
○本日は飛行雲縦横に出で、大空は美しき模様になりたり、それが恐怖のものとは思われぬように。
○地に1尺5寸(50㎝位)埋もれれば、大抵人は死ぬよし。

○コレヒドールには昼頃爆弾を落として、だいぶ被害受けしとの説あり。

☆註  コレヒドールはルソン島南部、バニラ湾口にあるコレヒドール島

開戦後1942年日本軍が占領したが、米軍は2月15日マニラ湾に侵入、16日島の奪回を開始、空挺降下と海上から部隊を進行させた。
3月2日、日本軍守備隊は全滅。
日本本土には詳しい情報は届けられていない。


2月16日 

○午前7時警戒発令、情報にて小型機数10機、関東東部に侵入とあり、昨日にも新聞紙上にありしーー艦隊機なること明白ゆえに家中で用意するーーまもなく空襲発令、約1000mの高度の由ーー波状攻撃にて約2時間来たり、10時少し過ぎに一旦解除。
○午前11時ごろにB29、1機静岡より山梨に入り、京浜北部を通過して東方海上に去る。
○まもなく11時少し前に空襲再発令、房総方面より小型機数10数機の編隊2、3侵入、関東西北部より東進しなどす。

 #待機中に皆々寄りしところにて信州へ退避疎開の件協議し、皆々賛成せり。


かくして12時15分に空襲解除。
2回に渡りしが、空襲時間が5時間に上りしは初めてとなる。

 ○午後1時、3回目の空襲

 ○午後3時、4回目の空襲(150機) 
 午後4時に至りて空襲解除となるも警戒は続く。ただし、この間にも各所に侵入機ありて、空襲警報に準ずるとの情報あり。
 ○この間、朝7時より午後4時まで9時間もしくは10時間にわたり、(☆日本軍は)艦載機、戦闘機、爆撃機、3種ずつ6種にて1000機以上(☆出動)との発表あり。
 ○大本営発表によれば硫黄島に今朝来、30叟の艦船にて艦砲射撃を実施中とあり、その上陸のための緊制(☆緊急連絡体制)なりとあり。

 

○汽車に対しての機銃掃射、学童への掃射その他ありしとのことである。

 ○戦果の発表はなかりき。
○俊雄の話にて、小田急線にて大砲丸を運ぶ時、1発爆発し、続いて2発爆発せし由。4、5日前にガラスに響けし大音響はそれかと思いあたる。

○何しても、フィリッピン西方海面の制海権を失いしは呆れたるばかり、日本も今回の戦争により、いかばかり目ざむることか。
 2月17日 
午前7時半に警戒中につきて空襲警報発令、解除。以後、解除されては空襲に入ること3回目にて、午後1時頃まで、小型機、京浜北東、西南部に来る。高射砲も盛んに鳴る。
 ○午後3時の情報にては、「目下関東地区に敵機なし。」
しかし、「東方、南方洋上には小数機にて警戒中のものの如し」とある。

 2月19日

 ○午後2時半B29約100機来襲、4時半頃に解除

 #自宅の上を最初の1隊が通過、近くにてズシーンと言う音を2つまで聞く、爆弾の落下らしく思わる。

☆註 この日B29は市街地を爆撃し、区部で160人以上が死亡(戦災資料センター)


☆註 アメリカ軍硫黄島上陸、3月には硫黄島日本軍守備隊全滅


2月 20日

 ○朝7時頃に警戒発令せしも間もなく解除

 ○硫黄島に19日午前中に上陸開始を報じたり

2月21日
午前4時45分に警戒発令、B29が1機来襲。
午後1時半頃に警戒発令、1機ずつ数個に分かれて来襲、高射砲鳴る、ただし空襲に至らず。
 ○ 19日のB29の来襲には21機撃墜と言う結果の由、新宿の鉄道病院の隣に1機落下、多数の民家を消失せしめた由、 
○予は月初より風邪にてノドを痛めていたところ、16 、7日より急に悪化せしが、鑑戴機来襲にて寝ること能はず、16、17日と無理したため悪感を覚えたので寝た。翌日は8度5分、その翌19日は9度にまで上りて、少々マイル、20日より快方、ハナ、ノドを痛めた。

 ○ 26日の7時40分よりの「寺子屋」の朗読を少し延ばしてもらう。その他すべての会合をものばしてもらう。

2月 24日

 午前2時半頃に警戒発令まもなく解除、B29 、1機
午後9時のニュースの時に警戒発令、静岡より1機づつ2機侵入。前者は関東西北部を旋回して、京浜上空を通過し投弾して海上へ。西北部旋回中にウナリを聞きたり。
○先日のB29の空襲の時、小宅の上を通過せる先頭隊は、経堂の北側、恵泉女学院付近に爆弾を落とせし由、びっくりして急に疎開せる人多数ある由。

2月 25日 

○午前0時30分頃警戒発令、約1時間にて解除、B29、1機の侵入なり
○午前8時に警戒発令、続いて空襲になる、小型艦載機が数編隊、房総、鹿島灘方面と静岡方面より来襲、ーーこの度は主に霞ヶ浦、土浦方面の飛行場、軍事施設の攻撃にて、当方面には来ず、午後1時頃に一旦解除、
○午後2時に再び空襲に入り、今回はB29の数編隊にて4時まで続く。
○大本営発表によれば、小型機は600機、B29 は130機の大挙来襲の由、雪の降り積む中のこととて、全然普通の視野きかぬ。
#25日朝の雪は約1尺(30cm)。その3日前に降りしがまだ約6、7寸(20cm) もあるので、深きところは2尺5寸(75cm)もあり、30年来初めての寒さにてはじめての雪であった。

 # 226事件のことが一寸思い出された。

 # 25日の130機爆撃は相当の被害らしく、神田駅付近も焼かれたる由。

 # 17日の小型機は、調布の飛行場を攻撃

 #狛江付近もやりしとのこと、利光氏方(☆娘の嫁ぎ先)の庭の上に急に舞い降りて、パツパツと火をはきしという、機銃を打ったのである。舞い下り方の早かりしと、日陰の庭に出てきたのが気持ちわるき由。黒い不気味な飛行機。
#壕の中にてたびたびウナリを聞く。
○宮内省の寮の1部と大宮御所(皇居)の守衛所に投弾せるよしにて、その他数カ所に火事を生ぜし模様。

 ○午後9時頃には警戒発令、B29 、1機の飛来、信濃南部より関東北部に入りて投弾の後、退去 。

2月26日

 ○午前0時半頃に発令、山梨地区よりB29の1機侵入、情報の通りに京浜西方より入りし故、寝ている上をウナリを生じて通る。甚だ不気味なり。そのウナリ遠ざかりてまもなく、ズシーンという音3回ありたり、爆弾と思われるもの、ホットせりとはこのことなり。
 ○午前7時少し過ぎに警戒発令、予起きて火を起こしておりしが、皆々に告げて用意をする。情報によれば、艦隊機の行動についての警戒の由、続いて新報を得ずとあり、とうとう1時間半にて解除となる。 
○午後7時に警報発令、B29、 1機が山梨より京浜西方を通過して海上に去り、まもなく3 、40分にて解除となる。
 #17日(?)の艦載機の時、静岡及び藤沢あたりにて、列車に機銃掃射をせし由、
静岡にては、列車の中が血みどろになり、死者の身元不明なるを、俵に詰めて運びたるよし、また壕にいて友軍機2機来たりしゆえ、皆々喜びしところすぐに打ち落とされて、再び掃射して飛び去りし由。
 ○同日、高勢実乗君肺炎のあと乍ら、2階に静養中に、いつものごとく屋根へ出て、双眼鏡を手にして、あれが何、あれが何と指差して見ていたところ、スーッと1機舞い下りたので、びっくりして、室内に飛び込んだということ、高勢くんだけに、その姿を見たかった。
 ○赤羽さんの防空壕に、Mの妻君入る、赤羽自身のために灯火を入れてあるそこへ先に入りて、チャンとすましている、大きな声でしゃべる。ウナリも何も聞こえない、あれでは吉村さんに嫌われたであろうとの事、面白し。ーー高勢方はMとは仲悪し。高勢方の人々にも赤羽方で壕に入るようにと言うが、がんとして入らぬ、Mが入るなら絶対に断ると言うのである。高勢の所のよし子が、赤いセーターを着てスボリの壕に出入りする。赤羽気にして、白い雪の中をチラチラ歩くと目につき危ないからこちらへ入れと言う。これもMゆえに入らぬ。おもしろき風景。
 ○先般17日頃にB29が6 、70機にて来襲せし時の事、先頭の一隊は、小宅の真上を東に行きしにて、さすがの寿美子も、アっと驚いて壕に飛び込んだのであった。
が、その一隊は経堂の北側、ガレージのあるあたりに4発おとせし由。隣住の塩見の娘2人は、恵泉女学院に行きおるが、警報で皆々帰路につき、空襲になりし故、ガレージのあたりへパットうずくまりし。友達の2人がもう大丈夫と外へ出たところへ、2発落ちて、すぐ目の前にて爆風のために死せし由、本当にびっくりしたとは、目を丸くしての話であった。 

2月27日 

○午前8時半に警戒発令、1機京浜西部より入る、9時半にまたもや静岡より1機侵入。11時少し前に解除。
予は外出のため成城駅にて電車を待つうち、高射砲の炸裂ありて、1機ゆうゆうと西方を通り東方に消えた。

 ○ 25日のB29、130機の来襲に関しては、多大の被害の由。

 ○青山5丁目6丁目辺り、青山の聯隊区やられ、大宮御所(皇居)の守衛所、

 ○第一師団司令部より竹橋へかけて、神田の神保町東京堂の辺りを境として南方へ。駿河台下も残りをやられたる由、神田駅より東京駅に至る間の両側は惨憺たるもの。

 ○秋葉原、浅草橋駅あたり、本所の錦糸堀より見通しになったとある。

 ○上野の松坂屋近辺、広小路西側、活動館のあたりにかけて、

 ○下谷の竹町、西町あたりとか、なんにしても、雪の降る中といい、雨のように焼夷弾落ちて手の施しようなく、震災の時同様手をつけられず、何物も残らず、消火せぬゆえに燃えるだけ燃えてきれいになっている由、人々戦慄。

☆註 油脂焼夷弾は水をかけても消えない

☆註 上の写真は河竹家に残されていた「投砂弾」。直径20センチほどの素焼きの容器に砂が入っていて、落とせば割れるようになっている。これを投げて、油脂焼夷弾の火を消そうと言うのだが、竹槍時代の気休めだった。

○俊雄の話に、25日のにては下町にて2万戸焼亡、8万人焼け出されたとのこと。死者は7 、80名の由、夜分またはウィークデーなれば、もっとけが人も大勢出たであろう。

 ○本郷駅辺りの上富士前辺、理研を始め、だいぶ焼けし由。

 ○浅草の仲見世は特に南側著しく、神谷バーと郵便局はあるも他は焼亡の由、左側もやられて、大増料理店のこり、観音様はよろしき由、

 ○印刷局も焼け軍事保護院も焼けた、

 ○重傷者以上は、手当てしても無駄故せぬと言う、

 ○高橋未亡人(☆2代目左團次)より夜電話ありて、やっと助かりしも、入りし防空壕の上に焼夷弾落ちてびっくり仰天したとあり、とても助からぬ故、ソチラへ焼け出されたら参ります、よろしく頼むと。


○山下大将は2回東上して打ち合わせたる由。しかも南方司令部は台湾に移りしもののよし。

☆註  山下大将 山下奉文(やましたともゆき)陸軍大将、マレーとシンガポールを攻略。第14方面軍司令官として、1月から終戦までフィリピンで戦った。2月3日〜3月3日の間、フィリピンの首都マニラで連合軍との市街戦で敗れた。10万人の市民が巻き添えで死亡した。「マニラの戦い」


 ○皆々敗戦気分にて困ったものなり。

 ○早大も要塞化の場合を思いて、半ヶ年分ずつの給料を先生に出して善処してもらい、半年先にまた相談するという策を取るとかーー大島氏の話 

○艦載機の機銃掃射は静岡が主かと思いしに、平塚、二宮、房総方面にても、相当にありし由。

 ○本27日より妻、寿美子、克孝3名の疎開に関する手続きを始めた。


☆註 25日の襲来は、米軍はマリアナの基地から爆弾を焼夷弾に積み替えて、172機のB 29での空襲。焼夷弾爆撃の実験的な空襲で195人死亡。

    《続く》

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)