東京大空襲の日に…。牡丹町もゲルニカだった

78年前の3月10日は東京大空襲があり、今日は墨田区の東京慰霊堂で、この空襲で焼殺された人々の慰霊の法要が行われました。
江東区牡丹町に住んでいた私(良子)は、この日、猛火の中を逃げ回った母の背中で終始悲惨な光景を見ていたとは思いますが、記憶にはないのです。その後、身を寄せた新潟から敗戦後に帰京し、両国駅から牡丹町に行く間の、焼き払われた東京の景色ははっきり覚えています。

ところで、逗子に住んでいた頃の隣人だったイギリス人、彼はノルマンディー作戦に参加したそうです。この時の、船から海岸に攻めて行く兵士の映像を見ては、どの人が彼なのかなと、いつも思っていたので聞いてみると、実は彼は船酔いをして、その時は船で寝ていたそうです。(笑)
その彼があの戦争で「my  Brother  was   killed 」と言ったのです。びっくりしました。
日本では、敗戦は終戦、戦争で殺されたのは戦死、兵士でない市民が無差別に焼死させられたのは犠牲者です。
その時初めて言葉の使い方の違いを実感しました。

今日のNHKの慰霊のニュースでも、いまだに被害、犠牲者、という言葉を使っていました。
93歳の家族を失った方が挨拶で「空襲で祖父や祖母、それに叔父の3人を失いました。無差別に多くの人たちを焼き殺したようなものです」と話されていました。
第二次世界大戦は長い経緯があり、その善悪は軽々には言えませんが、現実に起きたことをまず正確に(これがまた大変難しいのですが)、私にとってのファクトとしての言葉を使いたいと思います。

2年前にブログを書いてから、改めて牡丹町の空襲についてネットで調べてみて、びっくりしました。私が2年前に上げていたこのブログの写真が目に飛び込んできたのです。ど、どうして?
そして、戦争当時のことを書いている記事を探しても、防空壕に入ったお母さんの話を聞いたという記事をひとつ見つけたきりでした。なぜなのか?
みんな殺されてしまっていたのです!
体験談を書く人がいなかったのです。
助かって生きていても、生きるのに精一杯で、書いて残す余裕のある牡丹町の人々はいなかったのでしょう。母も父も、近所の人も戦争中の事はほとんど話しませんでした。それで、私の拙いブログだけが出てきたのです。江東区の東京大空襲-戦災資料センターや、他にもあるかもしれませんので、今度調べてみたいと思っています。

この空襲では、たったの2時間で10万人以上が焼殺されたのです。はじめに下町の周りをぐるりと火の海にして退路を絶ってから、中を絨毯を広げるように爆撃していったのです。絨毯爆撃とは聞いていましたが、今回はっきり認識しました。戦争は、兵士同士の戦いという世界的な約束があったのに、一般市民を標的にしたのです。
ピカソの描いた「ゲルニカ」はスペインのゲルニカに落としたドイツ軍からの市民への無差別爆撃でした。私は長年、このゲルニカの絵を見るたびに怖くて、どんな状況だったのだろうかと想像していましたが、もっと大規模な爆撃が、アメリカ軍による東京大空襲だったのです。私はほんの偶然で下町の端っこのあたりにいたので、危機一髪で助かりましたが、ぐるりと火に囲まれて逃げられず、焼き殺された人たちは、どんなにか、無念だったでしょう。

下のブログには私の小学校入学式の時の写真がありますが、今はそのすぐそばに、昭和天皇巡行の碑などがあります。碑文には空爆8日後の事が書かれています
「(御巡行の)打ち合わせは、昭和20年3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の決意をされたにちがいない。後略」とあります。
下は2022年2月のブログです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)