切抜帳13より②読売新聞「自伝抄」6~10回/戦争と青春
前回の続きです。前回は生まれた家のことについてや、自分の虚弱児時代のことでした。
6回目は子供時代、軍国教育を受けながらも、軍人に憧れる体力さえなく、絵を描いたり、本を読んだり朗読したりが好きだったと言っています。虚弱だったので、学校に行けないことも多く、病床で本を読むことも多かったからです。
なぜ理系に惹かれたか、ここに書いています。生まれた時からお国のために、と叩き込まれて育ち、繁俊夫婦も反戦を教えていたわけでもない家庭でしたから、登志夫は他の大多数の子供たちと同じように、いざとなったらお国のために戦地へ行っていたでしょう。理系の学生が徴兵を免除されたわけではなく、「入営延期」だったのですから。
成城学園の理乙のクラスで一緒だった阿部公房ら同級生たちのこと。時局が悪くなり、野営演習も増え、高校は半年短縮での卒業となります。登志夫は睡眠時、寝返りを打つことがありませんでした。いつもきちんと上を向いて寝ていました。それは、この野営演習での体験のためだと言っていました。晩年、それが脊柱管狭窄症によくないと医者に聞いてからは、意識して体の向きを変えるようにしていました。真面目な登志夫らしい話です。
昭和17年1月、黙阿弥の五十年祭。今年は黙阿弥歿後130年でしたから、今からもう80年前のことです。この文章の最後に、「来年は黙阿弥歿後90年になる……」と書いて締めくくっています。
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