切抜帳13より③読売新聞「自伝抄」10~15回/天才小平邦彦先生と消えて行く幻影

読売新聞「自伝抄」続きです。

下の写真、左上は母みつと。大震災の後の病気が一生治らなかったみつは病弱で、戦時中での配給を取りに行ったり、近所への分配、買い出し、家事一切は登志夫がせざるを得ないので、お手伝いさんがいたとは言え勉学との両立は大変だったそうです。
早稲田の演劇博物館と河竹家の疎開荷物の荷造りや、信州での疎開の手助けなどしていた頃の写真です。荷造りはこの時専門家に教わったからと、これ以後登志夫の特技の1つでした。下3枚は、信州で。

終戦間近、東大数学物理学教室とともに疎開します。純理の世界へ求めたもの、整然とした美しい形、自然。

食料難の中、無為に過ごした日々ながら戦時中、1番優雅な1ページだったかもしれない、、、

恩師小平邦彦先生の実家、茅野駅から歩いて約1時間半の鋳物師屋というところの大きな旧家にお邪魔して、、、
小平先生の家の大屋根のかぼちゃです。
1945年、ご家族の食卓。この後計算が始まったのでしょうか。
同年、成城の河竹家の庭での小平先生。

後年小平先生から贈られた英語とドイツ語の膨大な論集、3巻(1975年出版)。


ブログ 2021.08.15「登志夫の終戦/小平邦彦先生」に関連記事があります。

物理から演劇へ。

1948年5月撮影。登志夫、成城高校の物理担当の非常勤講師時代。
同じ頃、成城高校の庭で。
「第二次世界大戦直後の演劇、映画etc.プロ」と書かれた紙袋の中身です。20歳から23歳頃のものです。
昭和20年から昭和23年までの162本の映画の記録です。これから書く6本の題名が書かれてこのノートは終わっています。別立てのブログで、いつかご紹介しましょう。
映画会社名、監督名、主な出演者9〜10名、あらすじ、感想、映画館名などが書かれています。下書きをしてから書いたように、間違いなくびっしりと丁寧に書かれています。所々に、当時の粗末なチラシとか、プログラムとかが挟まれています。

最初の結婚で、子供をなくしたこと。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)