切抜帳13より①読売新聞「自伝抄」1〜5回 超虚弱児時代 逍遥の斑入り石蕗が御所のお庭へ
1981年6月8日~の読売新聞「自伝抄」連載。のちに随筆集「酒は道づれ」に収録しました。
この連載、いま演劇博物館の「河竹黙阿弥展」に展示されている古つづらの話から始めています。黙阿弥の遺言状、版権登録表、家督譲り状、糸女から繁俊夫妻への遺書や日記が入っていたのですが、関東大震災のときこれだけはと持ち出して焼け残ったものでした。この連載は、「作者の家」が読売文学賞を受賞したことで執筆したので、ここから始めたのでしょう。先日演劇博物館で開催中の黙阿弥展に行きましたが、児玉竜一館長、赤井紀美助教は、眼玉の展示はこのつづらだと言ってくださいました。大きく無骨ですが、いまにもモロモロと崩れ落ちそうに頼りなげです。このつづらが遭遇した様々な悲惨な情景やそれにまつわることが思いうかび、つづらとの再会にこみあげるものがありました。
三回目は登志夫が子供の時どんなに虚弱児だったか。母親が様子を見に来ると、心配かけまいと寝たふりをし、寝息までたてて安心させる…。登志夫が自分の子供時代のことを「センチメンタルで虚無的な、そのくせ妙に意地張りでしぶとい、子供らしくない子だった」、そして「いまでもふと、そんな性格が屈折した形でひそんでいるように感じてぞっとすることがある」と書いています。
4回目は、はじめて見た芝居のこと。昭和3年大隈講堂で見た「大隈重信」。昭和8年に歌舞伎座で見た二代目猿之助(初代猿翁)の「弥次喜多」のことは大変面白かったようで、よく色々なところに書いていました。
5回目は、逍遙遺愛の斑入(ふいり)のツワブキと棕櫚竹(しゅろちく)を熱海の双柿舎から成城にいただいたことが。棕櫚竹はみつが30年、良子が30年世話をして、子供たちにもなじみがありましたが平成半ばで、根が細くなって枯れてしまいました。先日、双柿舎を訪れた時には両方とも見当たりませんでした。
逗子に住んでいたころ、上皇様が我が家にお出で下さった時に、玄関付近に植えられていたこのツワブキにお目を止められたので、葉山ご用邸に1株お届けしました。その後花を咲かせたと伺いましたが、平成22年に、出版された御本「御所のお庭」(扶桑社刊)をお送りくださいました。
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