登志夫と弓道
「朝日新聞劇評の終了」で書いた通り、早大の1年間の国内留学制度を利用し、時間を得た登志夫は、こんなふうに記していました。
「さて、空になった頭は、新しいエネルギーを盛って新生できるかどうか。人生漸く五十に近い。庭の一角に作った垜(あずち)の的に向かって、富士山を背に弓を構えながら、やっと荷解きして整理する時間を得た黙阿弥や糸女の資料をしらべながら、これからかかろうとしている仕事のことと、二度とないこの世の生の価値ある生きかたを、今日もふと考えるのである。」
登志夫は旧制中学一年のとき弓道部に入り、また剣道・水泳の授業も始まり、超虚弱児だったのがこの頃から丈夫になったそうです。その後しばらく弓道から離れましたが、早大講師になった昭和30年ごろから早大弓道部に御縁ができて稽古や合宿に参加していたようです。
ですから、昭和47年、成城から逗子に引っ越し、新居ができた時、母みつの離れの住まいの裏に東西30メートル、幅2メートルの空間に、憧れていた「MY 弓場」を作ろうと思い立ったのです。生涯ただ一度の贅沢だと言って檜皮葺の屋根付きの的場に、細かい川砂を注文して垜(あづち)を固め、本格的に作ってもらいました。
さて初日、いざ始めてみると生垣の貝塚は植えたばかりでまだスカスカ、近所の小学生たちが近道でもしてもぐりこんできたら大変です。練習の矢が目に刺さり、失明した事故があった話を聞いていたので、これは危ないと、妻良子が見張り役に。
ここは小高い峠の尾根なので、背後には相模灘に浮かぶ江の島越しに富士の全姿が見える絶景です。が、それゆえに笛のようなぴ~っという鋭い音が聞こえるや、急に強風が吹き渡ってくる場所でした。
そんなわけで、実際にはさあ、弓でもやろうか、という気になっても、風、雨、霜、靄がなく、見張り人が在宅で手が空いているというタイミングは、なかなか見つからなかったのです。
夢の青空弓道場は、それでも10年くらいはそのままあったのですが、そのうち良子の家庭菜園に侵食されアスパラガス、ブルーベリー、トマト、キュウリ、インゲン、川砂を平らにしたところは、あしたばの群生地になってしまいました。練習用の巻き藁も、焚火にくべられ、登志夫の夢はついえました。
しかし、一回きりの、道場開きでのこの雄姿!写真を撮ったのは見張りを兼ねた良子です。まずは的に向かって礼。
足踏み。
矢をつがえて。
射法は、下から持ってくる日置(へき)流ですね。
引き分けて、会。ギリギリ、という弓の音が聞こえてきそうです。
唇のところまで持ってきて、じっくり天地左右に伸びます。的にあてようと考えず、伸びた先に的中があるのです。
このあと的に当たったのかどうか。。あたったらあたったで、的の紙を貼り替えるのはまた面倒なんですよね。
昭和52年、稲垣源四郎先生(日置流印西派師家)から早大弓道部の部長を引き継ぎ、以後退職までの13年間務めました。家での弓はあきらめましたが、信州での合宿には何度か本当に嬉しそうに参加し、昭和62年の男女ともの全国優勝の時は喜んでいたものです。弓道を通じて稲垣先生、細井先生にご指導いただいたことは、登志夫にとって望外の幸せでした。
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