河竹家と震災② 一家の避難経路

こちらは、登志夫著「作者の家」に掲載の、登志夫の手による「関東大震災のときの一家避難経路略図」です。一家は、はじめは書生の倉沢さんや女中さんも含め、全員で避難を始めましたが、糸女が、「柴田是真の屏風がきていないね」と、言ったため、繁俊はここを動かないようにと言って、引き返します。是真は、黙阿弥と親しかった画家です。ところが、自分は年寄で足が遅い、繁俊はすぐに追いつくだろう、と先を急いだため、一家は散り散りになることになります。ここで全員一緒に逃げていれば、数えで二歳の長男信雄が命を落とすことはなかったのではないか、と、顛末を知っている者としてはつい考えてしまいます。家や、家にあった貴重な品々を焼いたことは、黙阿弥家の養嗣子として、繁俊には痛恨の極みですが、子供まで亡くしたことは夫婦の悲しみを倍増させました。


登志夫は、この「作者の家」を書いた時には思いもよらなかったでしょうけれど、最晩年の5年間を、この地図の中にある、新大橋の袂、森下で過ごしました。長年神奈川県逗子市に暮らしましたが、持病の脊柱管狭窄症の悪化で仕事で東京に出るのも大変になり、また病院通いが増えたことで、娘のひとりが住んでいたのもきっかけとなりここに仮住まいのように住みはじめ、結局ふたたび逗子に暮らすことはありませんでした。足の調子がいいときには、小名木川まで歩いては、自分が生まれる前年に亡くなった兄を思っていました。ある夏には、小名木川にかかる高橋の近くのお寺での施餓鬼に行きました。新大橋と隅田川を毎日窓から眺めるたびに震災で逃げた父母や亡くなった兄を思い出さないことはなかったでしょう。

この図で、信雄水死とあるのが、長男が母のみつから離れ、川をひとり流されていった場所です。下の写真は、8月30日に撮影した、現在の万年橋。この橋から、下を通る舟をめがけて、「箕から豆をざらざらとこぼすかのように」飛び降りるのを、みつはちょうどこの場所で水を掛け合いながら見ました。もちろん、こんな遊歩道のない時代です。地震が起きたのは正午頃、みつがここにたどり着いたのは、もう夕方、暮れかかっていたというので、本当ならちょうどこのような景色だったことでしょう。実際は火と煙とで、空は覆われていたはずです。ちなみに、この図にもある、ちょっと上流の新大橋は、震災では焼け落ちず、この橋に避難した人たちは助かったので、「お助け橋」と呼ばれました。

万年橋の上からみた風景。下は小名木川、この先で隅田川と合流しています。隅田川にかかる清州橋が見えていますが、この橋は震災後に、大正14年に架けられました。登志夫の兄・信雄は、この右側の川中で母から引き離され、隅田川を川下の方、写真では左の方向へ流れていきました。もしかしたら、誰かに拾われ、別の家で育てられたという可能性もゼロではない、登志夫はそんなことも考えながら、ここを眺めました。

震災で多くの人々が焼死した場所として有名な「被服廠跡」は、本所の家のすぐそばです。下の写真は、昭和26年に出版されたグラフ誌です。中段左は、被服廠で亡くなった人たちの姿だということです。

上段には帝劇の写真がありますが、繁俊は当時帝劇に勤務していたので、この日は9月興行の初日で、昼食後に出かける予定にしていましたが、こちらは倒壊はしませんでしたが、中は全焼しました。

次は、繁俊の「震災の記」を紹介します。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)