終戦75年。うちの投砂弾
登志夫が保存していた投砂弾と書かれた円形の物体。空襲で燃えたら、これを投げて消火する、ということらしいです。振るとカラカラ、と何かが動く音がします。消火用の砂でしょう。
登志夫は、産経新聞の「こころの玉手箱」欄にこのように説明しています。
登志夫の没後、江戸東京博物館に関東大震災や戦争の資料になるようなものを寄贈しましたが、これはすでにたくさん所蔵していたようで、いまだにうちにあるのです。
きれいな円形、花器にも使えそうな見た目です。
こんなビラも紛れていました。終戦間近、空から米軍が撒いたもののようです。登志夫は、終戦を東大物理学教室の疎開で、信州諏訪で迎えましたから、これは繁俊が拾って持っていたものかもしれません。下は裏面です。
日中戦争から続いた長い戦争は、登志夫が二十歳の時に終わりました。戦争については、登志夫はたくさんの随筆や自分史を書いていますし、子供たちにとっても、決して大昔の他人事ではありませんでした。登志夫の妻良子の父は5年以上も戦争に駆り出され、はじめ中国へ出征、最後はインパール作戦で生き残りました。東京大空襲の夜には、良子は母に背負われ、深川の町を逃げまわりました。テレビで戦争の映像を見るたび、必ずそこに、家族の姿を重ねます。
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