繁俊・登志夫、親子の「野鴨」

前回、加藤剛さんが、繁俊が大隈講堂で「野鴨」の活弁をしたのを見て、大変感動した、というお話を書きましたが、「野鴨」については、登志夫も同じことをしていたようです。

登志夫の著書、とくに随筆は何度も読んでいますが、内容をすべて覚えているわけではありませんし、雑誌などに初掲載された時に改めて、それについて登志夫と話し合ったり感想を述べたり、ということもあまりありませんでした。毎回随筆を読み直すと、忘れていたり、読み流していたことが多いことに驚きます。これは家族みんな同じです。そんなこと書いてあったんだね、、、と知らせ合ったりすることもあります。「野鴨」のこともそのひとつです。

「演劇界」、2002年5月号(単行本「背中の背中」に収録)の「遠ざかる戦中戦後」に、「竹脇無我明かす竹脇昌作・名アナウンサー49歳自殺」というテレビ番組を見損なって残念だった、という後悔から始まる文章があります。それによると…

竹脇昌作の自殺は昭和34年、その数年前の28~29年頃、上野の文化会館のようなところで竹脇昌作が無声映画「野鴨」(1926・ドイツ)の活弁をすることになり、繁俊がそのアドバイザーをしたので、それを登志夫はそばで見ていました。繁俊は、恩師逍遙のイプセンの講義を講演録「イプセン研究」として編集出版しており、繁俊自身この作に傾倒していたから、それを知った誰かに竹脇さんの補佐を頼まれたのだろう。竹脇さんは礼儀正しく謙虚、低音の美声と淡々とした語り口が印象的だったそうです。そして、自身の「野鴨」の活弁の件。

「そう、その後間もなく、昭和30年11月、私自身が早大大隈講堂で二回、この映画の活弁をやる羽目になった。30歳、まだ助手の頃で、私が会長をしていた文芸座という学生劇団がこの作を舞台化するにあたって、上映したのだったとおもう。むろん竹脇さんより下手だったにちがいないが、おもったより好評だった。」(引用)

加藤剛さんが見た繁俊の「野鴨」は、この登志夫の大隈講堂よりもあとです。繁俊の自他ともに認める朗読上手は、師の逍遙仕込みだったようです。繁俊はともかく、登志夫まで活弁をやっていたとは。登志夫30歳の活弁、どんなだったのか、見た人に聞いてみたいものです。しかし、もう65年も前のこと。その時の学生も80歳をとっくに超えています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)