黙阿弥の時代の本読(ほんよみ)

前々回、繁俊の活弁について紹介しましたが、それは、師の逍遙による朗読上手を見て聞いて、崇拝していたので、それを手本にしました。その逍遙は、黙阿弥の「本読」を聞いたことがあり、それを高く評価していました。逍遙の朗読も、「本読上手」と言われた黙阿弥の本読の影響があっただろうと思われます。繁俊著の「歌舞伎講和」では、「本読」を次のように説明しています。

 「総座中残らずの者へ、今度の狂言の内容を発表するための脚本朗読である。座元は多忙のために立ち合わないこともあるが、座頭から立女方・下廻りに到るまで、作者部屋の者は勿論、囃子の頭、竹本連中までも、二階の大部屋に集まり、正面に控えた作者の本読を傾聴するのである。この時読む作者の傍にいて、湯を汲むのが見習の役である。正本を手に取った作者は、第一番に書いてある狂言名題を読み、場割を読み、下部に認めてある出場役者の連名を読み上げる。そうして舞台書きからト書きせりふ一切を読むのである。せりふの頭書きは、以前のはその時の役者名になっていたのだから、團十郎『……』、菊五郎『……』と読むのである。これは全く楽屋使用のための台本だからである。長い脚本になれば、立作者だけでなく、二枚目・三枚目の作者も自分の書いた所を読む。全部を読み終わると、その読み終わったのが、立作者ならばよいが、下の作者であった時には立作者は自席を少しいざり出て、共に手打ちをして、目出度く済ます。これで、本読は終わる。(略)

 作者の勤めの中では、この本読は大切なものの一つで、その読み方はなかなかむづかしい。その巧拙によって、とんでもない面倒を引き起すことがあった。作が相当によく出来ていても読み方はまづいと、役者に納まらないために苦情が出て、訂正するとか見合わせになるようなこともあるが、その同じ作を、本読の上手なものが代わって読んで納まったこともある。」

つまり、「本読」は、狂言作者が苦労して書き上げた作品がそのまま納得を得て、次の稽古という段階に進むことができるか、書き直しになるかの、正念場だったということです。

「歌舞伎講和」では、金井三笑という作者の本読について引用しています。彼は、紙代をケチっているのかと言われるほど、細字で草稿を書き、眼鏡をかけて本読みをしました。大きな字で書けば、本読の最終脇から伸びあがって覗き見されるからいやだという理由です。本読には長い刀を携え、読み終わると八方へ目を光らせ「さあ宜しいか悪いか」と問い、万一なにかケチを言われようものなら切り捨てん、と威嚇する芝居をしたそうです。それだけ作者にとって、緊迫の場だったということです。このような形の本読は、享保頃から始まったそうです。

この絵は昔の本読の絵を参考にしたイメージです。これでは後ろからのぞかれていますね。

これは河竹家にあった竹芝其水が写した黙阿弥の横書きの台本。ふつうは本読までに余裕があれば縦長の台本(正本)に書き直しました。このように、役名ではなく、「菊」などと、菊五郎を指す文字で書かれている。もちろん、現在の台本は、すべて役名で書かれています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)