加藤剛さん③

繁俊は、昭和35年3月に70歳で定年退職しました。登志夫が早大文学部で教え始めたのは、昭和30年、非常勤講師として、「演劇概論」(一文・二文)などを担当しました。31年には、専任講師となりますが、その翌年32年の夏から、アメリカハーバード大学エンチン研究所に招かれて渡米し、早大に戻ったのは翌33年秋でした。その翌年35年3月に繁俊が定年退職します。繁俊と登志夫が同時に早大で教えたのは、約5年ですが、そのうち1年は登志夫不在の為、実際は4年弱でした。


こちらは、1991年9月21日朝日新聞のインタビュー記事です。

加藤さんは、繁俊の定年の数年前に、大隈講堂で上映された無声映画「野鴨」に繁俊が活弁をつけたのを聞き、「ただの学者じゃなくて、優れた演劇人であることを知って大変感動しました」と語っています。二年のとき、登志夫が米国から戻り、登志夫にはアリストテレスの「詩学」を教わったということです。登志夫の印象を、「先生自身、アリストテレス風のマルチ人間でして、東大の物理学科を卒業されてから早大で演劇を専攻し、ハーバード大でさらに演劇を修めて帰ってこられたところでしたキラキラと輝いているようで、学生の憧れの的でした。」と、当時の登志夫のことを振り返ってくださっています。

そして、そのあと、加藤さんが俳優座で「野鴨」を上演するときに登志夫に昔の映画フィルムを見せてもらい、繁俊の活弁を懐かしく思い出された、ということです。加藤さんは、この「野鴨」で紀伊国屋演劇賞を受賞したそうで、繁俊・登志夫親子と、野鴨との素敵なご縁がありました。

この「野鴨」については、登志夫も活弁をしたことがあるようで……。それはまた次回に。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)