繁俊の面白い「歌舞伎講話」②

繁俊の「歌舞伎講話」の目次、「歌舞伎作者の発生と展開」の部分です(1枚目の写真、左端から)。

たとえば、狂言作者になるのはどんな人たちだったのか。「四 見習い」から引用します。

「芝居の楽屋内には、いろいろな部署がある。その中に『お』の字をつけて呼ばれるのが二つある。それは狂言作者と囃子方とである。前者は『お狂言さん』と呼ばれ、後者は『お囃子さん』なのである。これにはどうという明確な理由はないが、一つの特殊な動機は考えられる。元来この二つの部署は比較的薄給で、待遇がよろしくないにもかかわらず、身分のよい人がころげ込んでくることが多く、成り下がりの人が多かった。身分がよいといっても、所謂芝居者~江戸時代には、河原者と卑しめられていた劇場関係者~よりも身分がよいというだけで、町人の子弟が多かった。しかし、中には天保頃に町奉行となった遠山金四郎のように、遊蕩の果てとは言いながら好きで習った笛を役に立てて『お囃子さん』の一人になったような例もある。狂言作者にも、武家出があり旗本の子弟もあった。そんなわけで、劇部以外の社会から中年にして入る人が多かったから、楽屋内での位置はよくても、待遇はわるかった。つまり下世話にいう、『公卿のくらいだおれ』の格で、『お』の字をつけて、空虚な尊敬を払われたのであった。

 どういう経路で、作者になる場合が多かったのだろうか。それはほとんど例外なくと言ってよいほどに、遊蕩生活の結果であった。

  道頓堀の因果経にいわく、人間の捨て処、野等の塵場は作者なりと、むべなるかな、就中歌舞伎作者の湧き出づるは、娼家の小息子、下手俳諧師ならずば、学者医者の成りそこない、坊主落、いづれ銭なしの野等共なり。

 これは『伝記作書』に引用されている『当世芝居堅気』の一節である。安永六年大阪で版行されたこの書の言う所は、江戸時代を通じて間違いのない現象であった。並木正三や五瓶などは、芝居関係者の子弟であったが、南北は紺屋職人を父とし、如皐は商人の子供、黙阿弥は質屋の若旦那であった。」

と、芝居の世界は遊蕩生活の末に入ってくるような場所だったことが書かれます、その理由としては、

「江戸時代の庶民に開放されていた、自由な二つの天地であった遊里と劇場とは、一口に悪所場とさえ異名を取った如く、若き人々の憧憬の的であった。一旦野良者の生活に浸った以上、ぎこちない帳場格子を控えるよりも、文筆に親しんで、狂歌・俳諧・茶番の一つも作った覚えのある者としては、つてを求めて歌舞伎作者の生活を追ったのも無理ではなかった。」

いまの世でいうとどんな職業なのか、あまり思いつきませんが、一番人気の娯楽で、ファッションリーダーでもあり、当時のスターと仕事ができて、、、と、成り下がりの行くところ、と言われながらも、芝居の世界は憧れの場所でもあったのですね。


そうして、つてを求めて作者見習いとなって、だんだん一人前になるまでの細かな仕事が解説されます。書抜きの紙の折り方や、作者の劇場での居場所なども。見習いの仕事としては、、、

「芝居の開演は早朝からだったから、脇狂言や序開きなどというものは、ほとんど暗いうちに済んでしまう。従って、役者もそろわず見物もほとんどはいってはいないのである。それでもきちんとやる脇狂言などに役者が不足しているような場合には、狂言方や見習いが頭数に舞台へ出てごまかすのである。衣裳もつけず、顔も塗らないで出て、大きな鬘を頭からすっぽりとかぶり、せりふを教えて貰っていい加減にしゃべって済ますこともある。幸い見物席はがらんとしているのだし、カンテラを点して出方や若い者が、土間の掃除をしているのが通常だったという。甚だしい時には、脇狂言の時に役者が少なくて、見習いが出ても未だ不足だとなると、びゃくろくという役者の腰を掛ける細長い台を持ち出して、それに鬘をかけて間に合わせるなどという滑稽もあったという。」

などという、今は考えられない仕事もあったようです。もうひとつ、今では考えられない初日の様子がこちら。

「さて、幕があけば、その場に関する責任は、稽古した作者が一切を負うのである。舞台の上では羽織を着ない慣例であったから、着流しのままで役者の間をあちこちと、見物の邪魔にならないように縫って歩いて、せりふの忘れたのを附けてやる。見習いは障子屋台の蔭とか、暖簾口に立っていて、出場を役者に知らせたり、小道具などの不足している時のために注意している。初日から三日間は御定法として、せりふをつけてやるものときまっていたが、それ以上は、役者が相応の礼をして頼まなくてはならなかったものである。但し下の作者の中で、役者の誰かに目をかけられて、所謂役者附になっている者は、無論この限りでなく、三日過ぎてもせりふを附けるために舞台へ出る。それ故初日から数日の間は、舞台の上には役者以外に作者や附人の作者が、あちこちにいるのである。現今では黒衣を着ているが、これは近く三十年来のこと、京阪の慣習を輸入したもので、江戸から東京にかけては素のままで出たものである。」

今も、初日あいて三日間を「御定法」というのは同じですし、かなり大きい声で障子の後ろなどからプロンプターの声が聞こえることもあります。役者さんの耳が遠い場合は、役者さんが「え?」と聞き返すなど、初日ならではの光景もそれなりに面白いものですが、江戸、明治はもっとあからさまに行われていたのですね。そして、いまは黒衣を着て、あまり姿の見えない狂言方さんの柝ですが、

「御定法三日が過ぎると、幕切少し前に、上手大尽柱のところへ来ていて、幕になる時に、すっと立ち上がり、チョンと木を入れる。無論これより前々の日にも、木は入れるのであるが、三日間は役者の都合で、一定の場所で打てないこともある。この時である、男ぶりのいい作者が、意気な縞物の着流しに献上博多の帯を掛長に結んで、緋縮緬の袖裏か何かをひらりとひるがえして、すらっとしていきな姿を、観衆に見せて悦に入ったなどというのは。」

当時の芝居の様子や、作者見習いの仕事の楽しさなどが、目に浮かぶようです。このあとも、作者になるまでの苦労や、楽しみなど、おもしろいお話がどんどん続きます。また折に触れてご紹介したい内容が満載です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)