中村哲郎氏の「勘三郎の死」
繁俊についても、井伏鱒二氏の紹介状を手に面会したときのこと、最晩年に、国立劇場開場演目についての相談で、加賀山直三氏について成城の家を訪ねた時に投げかけられた「功を焦ってはいけませんよ」というひとこと、のことなどが中村氏の若き日への振り返りとともに書かれています。
登志夫については、葬儀の日の「幸せな」印象からはじまり、
「(略)かつて確か和角仁氏の囁いた『祝賀会や記念会のスピーチをお願いするのは、登志夫先生に限るんだ。マイクを握ると、明るいものがパーッと拡がる』と。わたしの二度の出版の集いにも、いずれも先生に引き受けていただいた。あの軽やかな独特の笑顔、親切で的確な過不足がないお話、ちょっぴりほろ苦いユーモアの風味……。」(引用)
この文章に続く、
「(略)登志夫先生も生まれながらに絹のハンカチを手にして居られた。名家のプリンスとして、繁俊博士の御曹司として、後年は芝居道の司家として、また歌舞伎の外交顧問として、言わば、"晴れ男”の使命や宿命を背負って居られた。しかも、先生は歯を食いしばっても、人びとの期待に背くようなケースが一度として無かった。これは大変なことだった、とおもう」
というところは、登志夫への深いご理解、ご好意が感じられ、忘れられない一文です。
また、中村氏を通して井伏鱒二氏から嬉しい励ましをされた時のお話も。
「昭和五十年代前半の或る日、井伏先生の荻窪のお宅へ伺うと、『君が来たら、真っ先に言おうと思っていたが、河竹ジュニアが『季刊芸術』に連載中の『作者の家』は、大変にいいものだ。あれを読むといい。ああいうものを書かなくてはいけない』と、先生には珍しく声を強めて激賞された」
井伏氏は、登志夫が好きな作家でした。その後、中村氏、井伏氏と会った一夜の話、そこに登志夫が「作者の家」単行本を持参し、井伏氏にサインをいただいたこと、その帰りに井伏氏が、感じのいい人だね、とおっしゃったこと、などなど、登場する若き日のみなさんの、この夜の表情が浮かんでくるようです。
ちなみに、この本の装幀は、登志夫一家が成城にいたころ、お隣さんだった横尾忠則氏。横尾氏は、勘三郎さんの平成中村座のポスターを手掛けられましたし、昭和四十年代から当時の猿之助のポスターのデザインをされたり、歌舞伎とも縁の深い方です。
昭和48年刊行の登志夫の「日本のハムレット」は、横尾氏による装幀です。こちらは次回にご紹介します。
0コメント