朝日新聞劇評の終了

昭和43(1968)年4月から5年間続けた歌舞伎評をやめたのは48歳の時でした。こちらは、昭和48年4月21日の朝日新聞紙面、劇評を前月で終了し、そのまとめのような意味の寄稿です。

「本紙に毎月の歌舞伎評を書きはじめてから、はやいもので、先月で満五年になった。で、これを機に、ひとまず筆をおかせていただくことにした。まったく、私一個の身勝手な念願からである。」

と、冒頭で、終了の理由は自分の勝手からであると書いています。

随筆集「幕間のひととき」に収録されている[ちょっと一息](昭和49年3月/「現代の眼」へ寄稿)という随筆に、このあたりのことを書いています。(以下引用)
「で、この一年、思いきって雑文や雑々とした義理ずくの動きを、離れようとつとめた。朝日新聞に書きつづけた歌舞伎の劇評も、知らぬ間に満五年になったので去年三月にやめさせてもらった。縛られた仕事と、予定に追われて詰まった頭から自分を解放して、いったん空っぽにしてみたいと言う衝動である。むろん国内留学とは研究のためだから、何もしないわけにはいかないし、何もない自由と空白に憧れてはみても、所詮何もしないではいられない貧乏性の私だ。 

 たとえば、十数年来携わっている演劇の比較研究の最近の仕事をまとめて、『続・比較演劇学』として出す予定でいま印刷所に入っている。六百余ページになるので、時節柄出版元の南窓社主人は目下紙の確保に奮闘してくれている。が、そのほか単行本の約束は五つ六つ溜まってはいても、書斎のスタンドの足に立てかけてある差し当っての原稿予定表は、さいわいあと三つだけになった。残された貴重な二か月のために、これ以上ふやすまい。

 さて、空になった頭は、新しいエネルギーを盛って新生できるかどうか。人生漸く五十に近い。庭の一角に作った垜(あずち)の的に向かって、富士山を背に弓を構えながら、やっと荷解きして整理する時間を得た黙阿弥や糸女の資料をしらべながら、これからかかろうとしている仕事のことと、二度とないこの世の生の価値ある生きかたを、今日もふと考えるのである。

 五十にしてなお惑えるしあわせを、ひそかに喜びながら—。」

これは、「全くの幸運ながら、勤め先の大学で国内留学という制度に当り、一年間授業免除という恩恵を与えられた」(引用)こともきっかけになり、取捨選択した人生の方向性でした。のちのちも、自分で選べる時には「演劇評論家」ではなく、「演劇研究家」と書きました。好み、感覚的な部分によるところの少なくない劇評家よりも、自らのテーマの研究、自分にしかできない仕事(「作者の家~黙阿弥以後のひとびと~」執筆など)をやるなら今だ、と決断してのことでした。

ところで、随筆からの引用に、庭で弓を構える、という一文がありますが、これについては改めて……。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)