繁俊の出身地

「ぼくは、江戸根おいの狂言作者黙阿弥の後嗣ということになっているばかりでなく、歌舞伎について話したり書いたり、研究したりしているので、まぎれもない江戸っ子だと思われることもあるが、じつは信州の山猿である。」

繁俊の「牛歩七十年」の冒頭「あの頃」の書き出しはこのように始まっています。書くものに、たびたびこういう表現が見られます。それにひきかえ、妻のみつは日本橋両替町、いまの日本銀行近くの大店に生まれ育ちました。繁俊がラジオ放送で話すのを聞いたみつが、「今日も信州訛りが出ていましたよ」と指摘することも度々だったということです。繁俊が、大正8年にこの妻みつをはじめて生地へ案内した時の話はとても印象的です。(以下登志夫著「作者の家」より引用・地図も)



「一度、四カ月になった長女をつれて夫婦で信州へ行ったことがある。繁俊の弟の奨の婚礼に招かれたのだが、(中略)信州ではまだ春浅い、大正八年の三月のことだった。 

 夜十一時ごろの汽車で新宿駅を立ち、翌日の昼ごろ辰野着。まだ伊那電鉄、つまりいまの飯田線はなく―辰野・天竜峡間全通は昭和二年―辰野から飯田までは人力車だった。山といえば箱根しか知らなかったみつは、雪をいただいた木曾、赤石の連山が右に左に迫るのをみて、なんて山奥なんだろうと心細くなった。

 飯田着が夕方の四時ごろだったか。さてそれからがまたびっくり。乗せられたのは犬のひく車だった。小牛ほどもある大きな犬が二匹で走るのである。

 暮れかかった未知の行手を山がさえぎる。

『あれ、まだなの?あすこはもう山じゃないの』

 繁俊は平気な顔で、

『うん、なァに、あの山のうしろさ。もうじきだ』

 その山は越えた。が、すぐまた目の前に別の山が、犬の頭越しに迫ってくる。

『あらいやだ、ちょっと。また山じゃないの』

『だから、あの山のむこうだよ」

 飯田から山本村まで、二里十三丁。山また山をこえて繁俊の生家へ着いたときは、八時を過ぎていた。真夜中のように感じた。

 日本にもこんな山奥があったのか。こんな山奥にも、人が住んでいるのかー東京の下町に生れ育った『井の中の蛙』には、見るもの聞くもの、おどろくことばかりであった。」(以上引用)


信州のまだ寒さ厳しい三月、四カ月の赤ん坊を連れて、21時間かけての往路はどんなにか大変だったことでしょう。犬のひく車で四時間。動物園や遊園地のアトラクションで10分くらいならどんなにか楽しいことでしょうけれど、動物愛護の現代では実現不能な乗り物です。

はたして復路が同じコースだったかどうかは登志夫亡き今、知る術はありません。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)