繁俊の次兄、市村与市さんのこと
登志夫は著書「包丁のある書斎」の「浜納豆」というエッセイに繁俊の次兄・与市さんのことを書いています。
「(略)浜名納豆、略して浜納豆は、物ごころつかないころから好きだった。伯父―父の兄ーの与市が、よく土産に持ってきてくれたのである。
名古屋の金城女子専門学校(後に学院)長だった伯父は、校務で上京するたびに渋谷松濤の私の家に泊まった。信州の農家出の四人兄弟中でただひとり、何度か欧米に旅し、口ひげにシルクハットや真白なヘルメットの似合う、颯爽としたモダン紳士だった。(略)
私が生れた時はその叔父そっくりだったと母からきいてもいた。若いころは苦学闘病の人だったとも。後年ふと私が神様無用論を口にすると、『求めない者には与えられない』と、いつも楽天的で時には粗野にさえみえる伯父が、めずらしくさびしげにつぶやいた。いまもその顔を思い出して、ちょっぴり胸の痛むことがある……。」
このエッセイにはこのような登志夫のイラストが。小学二年のとき描いた名古屋の伯父さん、と説明が書いてあります。
また、登志夫著の「作者の家」では、
「(繁俊は)明治44年の(文芸協会一期生)卒業公演として行われた協会第一回公演の『ハムレット』には端役ながら帝劇の舞台に立っていた。長いせりふがひとつある『廷臣ボルチモンド』と、あとは槍か何かを持って立つだけの、その他大勢の兵卒だった。その公演は五月二十日から一週間だったが、約一月おいて七月には一日からまた七日間、大阪の角座に同じ配役で上演されている。
その角座へたまたま、当時京都の津島中学の教師をしていた次兄の与市(後に名古屋の金城学院長となる)が見物に来て、出演中の弟を発見、珍事出来となり、それがまた黙阿弥家入りの直接の動機にもつながることになる」と、与市さんが偶然弟を発見し、それを実家に知らせたため、騒ぎになるといういきさつが描かれます。さらに与市さんについて、「作者の家」で、
「(咸人の)二歳年下の与市も東洋大学で東洋史をやり、愛知県立第三中学、鹿児島県立第一中学などの教諭を歴任し、かたがた京都大学の文科に入って勉強中である。やがて大正二年名古屋のミッション系の金城女学校に入り、経営の手腕をふるって今日の金城学院大学の礎をつくるのだが、当時すでに闘病経験の中で洗礼を受け、キリスト教信者でもあった。」と記しています。
展覧会の図録では、17歳で禅僧になったとか、金城女学校卒業生と結婚(自身が金城女学校に勤める以前のこと)などという情報も掲載されていました。さらに、この展覧会の講演では、与市さんは道の馬糞を拾ってお金にして本を買った、などというこの時代ならではの、心揺さぶられる逸話も聞きましたが、そんなに貧農だったわけではないので、当時の子供はそうやってお小遣い稼ぎをしていたのかもしれません。
大正2年にこの学校の教頭になってから、当時38人だった生徒数を4000人を超す学校に高め、校長としては第九代ですが、いまも「中興の祖」として生徒たちに認識されています。いまこの学校は、名古屋では「三大お嬢様学校」のひとつに数えられ、名古屋巻きの美しい学生さんが通っているとテレビで見たことがあります。金城学院大学のホームページには、「市村與市が第9代校長に就任。教育理念実現に向けた「指導綱領9則」を定め、スマイス宣教師夫妻とともに、その後の金城学院の発展に大きく貢献しました。」と記載されています。
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