繁俊の長兄、市村咸人(みなと)さんのこと
市村家は、両親ともに、とくに母方が大変な芝居好きでした。以下、登志夫著「作者の家」より引用です。
「(繁俊がのちに文学青年になったのは)ひとつは両親の歌舞伎好きである。名古屋に近いせいもあって、昔から芝居のさかんな土地柄だった。三里ほど離れた川路村へは、天保年間に、そこの出身で当時金座役人として幕府内に勢力をふるった後藤三右衛門がひいきだった縁故で、七代目團十郎が巡業に来たこともある。そんなときは母方の祖父などは、十日間通いつづけたという。
父親は養蚕をしながら一口浄瑠璃を語り、母も「伊賀越」だ「忠臣蔵」だと、よく話をして聞かせた。隣村に地狂言があれば親類に招かれて、見物にも行く。そうやって自然に、耳と目から芝居に親しんでいったのである。」
繁俊は自身が文学青年になったのにはもうひとつ、長兄咸人のお蔭、と「ずいひつ牛歩七十年」の中に書いています。以下、引用です。
「ぼくが物の本にしたしむようになり、それを一生の仕事とするようになったのは、長兄のお蔭だった。長兄市村咸人は今も83歳で郷土史完成のためにいそしんでいるが、これがたいへんな読書家だった。その頃出刊されはじめた博文館の帝国文庫は、あらかた購入しており、「小国民」という雑誌もそろえていた。しかし最初にぼくを引き付けたのは、巌谷小波の日本昔噺・日本お伽噺の二大叢書だった。兄は飯田の町へ行くたびに、新刊されたのを取ってきてくれた。それを礼を言うでもなくむさぼり読んだ。ひっくり返しとっくり返し読んだ。」
と、言っています。
こちらは、前回「市村三兄弟」で書いた飯田市美術博物館の天覧会図録の市村咸人のページです。
登志夫著の「作者の家」より引用です。
「長兄咸人は、農家をつがぬと親に叱られながらも、この頃(明治43年)はもう地元の山本小学校で教鞭をとるかたわら、山本学務委員、下伊那郡教育会展覧会調査委員、信濃史料編纂委員その他をつとめ、地方教育畑では34歳にしてすでに重きをなしていた。」
咸人は農家を継がず、郷土史研究に没頭し、「下伊那の先史及原始史時代」「建武中興を中心としたる信濃勤王史攷」「伊那尊王思想史」「松尾多勢子」「伊那史概要」などを著し、昭和35年に紫綬褒章を受け、文化財保護功労者として顕彰され、その3年後に86歳で亡くなりました。
繁俊含め、兄弟でふたりが紫綬褒章、さらに文化に貢献したとお国から認められたのですから、農家を継がない、と叱ったご両親も、泉下でまぁよかっただろう、と思ったのではないでしょうか。
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